思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

日韓併合 それぞれの国際観

お盆休み中に放映されたNHKの番組によれば、韓国で一番知名度がある日本人とは、伊藤博文であるらしい。日韓併合の前年1909年、ある韓国青年により伊藤博文が暗殺されたらしいが、おそらく日本の韓国支配の代表者として伊藤博文を見て来た、今日までの韓国なのであろう。

ところで韓国から見た外国とは、決して日本だけではない。1894年の日清戦争と1904年の日露戦争と、李氏朝鮮をめぐっての戦争が生じていた。それは充分な対外的な戦力を行えなかった李氏朝鮮であったことを意味し、また清国、ロシア、日本という外国戦力が、その李氏朝鮮をめぐる戦争勝利が韓国支配の権利獲得と互いに認め合っていた雰囲気にあった形なのである。(それとも戦争勝利後の一方的な日本の方針だったのであろうか?)

そこで現在の日韓の歴史問題について、それを互いの歴史的な国際観という観点から考察するためにも、日韓併合よりは古い過去へと遡り、1875年江華島事件や1876年の日朝修好条規などに求めたいと思う。

この日本側から李氏朝鮮側への不平等条約とは、逆に日本側が過去にアメリカから受けたところの1854年の日米和親条約、1858年の日米修好通商条約の不平等条約の状況を踏まえてなされたものであった。つまり日本側は不平等条約にグローバルな封建的なルールを見ていたのであり、ある意味すでに日本国内でも認められている歴史解釈ではあるが、「欧米にたいしては卑屈、後進国には威圧」の外交意識の傾向にあった日本と言える。

欧米側から受けた不平等条約の時からか、日本ではその幕府の対処に国家的危機を見た長州藩や薩摩藩を中心とする志士たちによって、1867年の大政奉還、つまり江戸幕府の終焉、そして王政復古の明治維新へと向かったのである。1864年の下関砲撃事件までは外国排撃を目的とする攘夷論が勢力を持っていた日本だったが、わずか三年ほどで開国論のもと大政奉還へと辿り着いたのだから、驚くべき変わりようである。

では井伊直弼の開国状況と明治維新の開国状況とでは、一体何が違っているのだろうか? それは外国の貿易による民間侵入にたいして、日本政権が外国へ示すルール主張の度合いである。幕府体制の外交対処の軟弱さに不満を持った人々が奮い立ち、幕府の外交意識よりも頼りとなる外交意識へと成長させることで、人脈勢力を築いて行った倒幕派の台頭となったのであろう。

一方、日本からの不平等条約を受けた李氏朝鮮はどうであったか。1876年の日朝修好条規の後に生じた、1884年の甲申事変に見られる事大党と独立党の対立に、日本とは異なる事情が認められる。

李氏朝鮮は周辺諸外国の勢力にさらされる中、伝統的な冊封関係にあった清国を望む[事大党]と、親日派の日本の明治維新を習おうとした[独立党]に分かれていたのである。また清国と日本の双方の軍隊が国内に介入していた点で、日本の明治維新とは、大きく事情が異なる。日本では倒幕側にはイギリスがつき、幕府側にはフランスがついたのであるが、大きな外国の軍隊の国内介入はなかったのだ。あくまでも日本の場合は国内問題として幕府側と倒幕側が争ったのである。

全く日本の場合は、幸運にも市民革命を果たしていたイギリスとフランスによって取り囲まれていた訳だが、李氏朝鮮の場合は、市民革命を果していない封建エリート的な支配しか知らない清国と日本の指導者たちが考案した方法によって介入されてしまったのである。

確かに日本は大人であるイギリスやフランスの勢力によって取り囲まれていた点で恵まれてはいたが、しかし幕府側と倒幕側の争いには日本の文化的な朝廷が象徴とされた上での国意識を共有した志士的な戦いでもあったのであり、幕府側は窮地に立たされても外国勢のフランス軍の手を借りた奪回までは目指さなかったことが、日本においては国意識共有がなされた明治維新だったことを意味する。奇妙な話だが、日本は摂関政治そして鎌倉幕府以来と、天皇の政権権力が無力化し、かつ継続されてきたことが味方したのである。明治維新から王政復古したことにより、それまでの外国からの不平等条約が子供のおつかい的な契約であったかのような雰囲気に持ち込めたのであり、後の条約改正の礎になったことであろう。

その点で李氏朝鮮の皇帝の場合は不利であった。すでに清国との冊封関係にあった点で表政権舞台にいた皇帝であるし、日清戦争後の1895年の下関条約により清国との冊封関係が解かれ、国内の独立意識が普及した結果としてではなくして、大韓帝国という独立国の皇帝となってしまったのである。それは日本で倒幕派が幕府体制を壊したような、内乱によって国内を結集されるような形で、独立党と事大党の対立からの国内的な結束への確立と向かえる可能性を失ったことを意味するのである。

ただし李氏朝鮮は1866年からのキリスト教弾圧の丙寅教獄など鎖国政策を貫いてきた大院君の失脚により、1873年には閔氏への政権移行となって、1876年の日朝修好条規など、日本をはじめとする諸外国との関係に至ったことを忘れてはならない。開国政策になったのならば、そこから内治結束のための権力争いと共有化させた上で争わなければならないのに、権力闘争の結果が内治政権の権力と考え、より高い外交意識を構築化する争いにはならなかったのである。ある一定数の取り巻きエリートたちでなされる権力争いにおいて、首長の品定めをする志士たちのヴィジョン共有化とその国的支持層の確立が足りなかったためなのか、日本の明治維新のような外国へ見せる国としての結束へと進まなかったのである。やがて清国と日本の外国二国に介入される事大党と独立党の対立になったことからして、日本の最後の将軍慶喜のような幕引きによって国がまとまる時期を、結果的に失っていた李氏朝鮮である。

フランスやアメリカが入り込もうとしていた時期は鎖国政策により李氏朝鮮国を貫いていたが、閔氏一族の開国化となった時期に入り込んできた清国と日本が介入した日清戦争による独立、戦勝国日本が日露戦争をへて日韓併合へ至った。日韓併合における日本の侵略性について、それを日本のみの侵略性とする考え方には国際情勢を見る国際観が未熟である。きつい言い方をしておけば、国内において国際観の共有化が進められずにいたどころか、共有化する必要性さえ気付かない未熟さだったため、事大党と独立党の対立の後に東学党の反乱が生じ、清国と日本の手を借りることになった李氏朝鮮と言いたくなる。もし「清国やロシアは朝鮮の独立に味方してくれていたのに、それを日本が阻止した」と冗談でもよいから国際観を加えて訴えてくれれば議論も進むのだが、日韓併合の日本と韓国の関係のみを歴史の始まりと言われては返す言葉もないのである。また日韓併合を起点としている内は日本の過去を理解できないし韓国自身の過去もわからないだろう。当然、国際状況の過去もわからないままである。現在の国際的な資本主義社会において、日本や韓国を含めてどの国々も、ろくに過去の歴史経過について充分に理解している訳ではない。いつになるかわからないが、国際情勢を改革するのは、歴史的経過をより理解した国々から生じると思う。



日清戦争後に大韓帝国として独立してからは、今度はロシアと日本の間に晒されることになった訳だが、三国干渉から見られる国際ルールには、選民意識に満たされた各国エリート的指導者同士の帝国勢力の駆け引き特質を、私は感じずにはいられない。1907年の韓国が密使を送って訴えた韓国独立の維持をハーグ万国平和会議は聞き入れなかったからだ。

日本側を弁護しておくならば、韓国の独立を国際的に各国が認め、かつ植民地拡張を目指す帝国主義的進出の禁止を促す方向へ国際的雰囲気が向けば、日本はもっと異なった行動をしたであろう。日韓併合とは、そうした偏狭な国際ルールを重要視した日本の結果である。その偏狭なる国際ルールが広まっている国際観を日本は持ち合わせていたが、李氏朝鮮はそれを国内でまとめることができず、その偏狭なる国際ルールの中で日本へ委譲したとも、ある意味見なせる。また西欧諸国をライバル視することで、特に日本自身が抱いた「極東の番犬」としての意識とは、日露戦争の1905年ポーツマス講和条約の「韓国における日本の優越権の承認」の結果からであり、同年末の伊藤博文の韓国初代統監就任が基礎となって、1910年の日韓併合に至ったと私は見ている。

伊藤博文の暗殺には、韓国の独立性の主張があったのだろう。しかしそれは広く国際情勢を踏まえた上での見識であろうか? 大院君の政権までは、何度も外国の侵入にたいして抵抗してきた李氏朝鮮ではある。しかし度重なる排外抵抗のための支出は重み、閔氏政権へ移ってからは開国政策となった。そして清国か日本かの事大党と独立党の分裂である。この時には外国の内政干渉にたいする抵抗が、さらなる内部分裂となって国力結束化の低下へ導く運命にあった李氏朝鮮なのである。しかし排外民族運動である東学党の乱が1894年に起こり、その内乱を抑えるのに清国と日本が手伝っているのである。その後の沈静化において軍隊を引き上げず内政干渉を進めた日本であって、日清戦争へと向かった。つまり李氏朝鮮について記しておくならば、事大党か独立党かの議論を韓国内全体が監視しながら国民的統一意識へと共有化させる機会を逃した形である。



確かに「極東の番犬」意識とは、日本側の自称的な傾向ではあったであろう。しかし日韓併合から遡ること、親日派であった独立党の人々について考えていないのが、日韓併合を起点とする日本侵略論の特質なのである。それは韓国側が自国独立党を棚に上げておいて、一方的に日本を批判していると言った意味ではない。自国独立党をまるで売国奴と見なして、我らこそ独立韓国精神のごとくに主張していることを意味する。そうした主張とは、過去の自国の独立党の人々を見ていないのであり、それは現在韓国の、ある考え方をしている人々の意見については相手にせず抑え込んでいることを意味しているのである。

事大党と独立党の対立について、それを韓国自国に介入して来た外国の不当な侵入の結果として考えるならば、その主張には自国韓国精神を包括する理念があると言えるが、ただ日韓の併合関係を問題とする主張であるならば、それは後になって日本批判をするために独立党成敗をしたようなものである。むしろ国際的な内政干渉をした諸外国の批判することによって、事大党と独立党の対立から外国の内政干渉にたいする自国の結束に至らなかった李氏朝鮮の歴史的事情を考察する必要があろう。



さて今回の管直人首相の日韓併合にたいする反省謝罪については、私は支持している。しかしそれは日本が正当な国際ルールの確立を求めず、現状の選抜国際ルールに自国の箔付けを目指したことを含めてである。言ってみれば日韓の加害者側と被害者側の謝罪に留まらず、当時のとぼけた選抜国際ルールを吟味して、歴史認識を深める必要性のためである。



まあ私の現在の結論としては、要するに日本は「みんな経験的ルールで苦労していること」を上手に理屈づける、もったいぶり発言の国民で、韓国は「相手が経験的ルールで得していること」を上手に責める、追及発言の国民なのだろう。

それから日韓戦後補償の問題ですが、何やら1965年には日韓基本条約なるものがあるらしいので、単純な加害国日本と韓国被害者個人の問題に集約しないことですね。そんなことをすれば、韓国政府の韓国国民にたいする問題から目をそらす結果となり、今後の韓国のためになりません。もし新たな戦後補償に手を出すにしても、日本は韓国政府の今までの怠慢を韓国国民に知らせる形で行わなければなりません。日本は日韓併合をしてしまったために、自国韓国政府にたいして、韓国国民がなさねばならない政府監視意識の育成機会を阻んでしまったからです。



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
スポンサーサイト
  1. 2010/08/18(水) 19:35:48|
  2. 他人事天国
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<ヘブライ思考とギリシャ思考 | ホーム | 背中を丸めるの巻>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://gold1513.blog48.fc2.com/tb.php/159-5b74e58a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。