思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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サウルとダビデ 「サムエル記」

「サムエル記」では、イスラエルの初代サウル王と二代目ダビデ王について記されている。では王を立てる契機になったのは、一体何であったか? それは出エジプトの際に生じた【人間中心的な思い図り】にたいする監視や戒めとなる「神」の理念が、脈々と子孫へと受け継がれないこと(「申命記」31章・27節、29節、「士師記」2章・10節、「サムエル記上」8章・3節)、そして他国の王政体制と比較した場合の自国体制の不備を感じた(「サムエル記上」8章・5節、20節)ためであろう。

ともかくサウルが初代イスラエル王となった(「サムエル記上」11章・15節)訳だが、合わせて問題となった事柄として、出エジプト以降のイスラエルの先祖が繰り返してきた背信である【人間中心的な思い図り】についての戒め(「サムエル記上」12章・9ー10節)がある。いずれも「士師記」でも記されているとおり、バアルとアシタロテ(2章・13節)、モアブの王(3章・12節)、ハゾルの王ヤビンの軍長シセラ(4章・2節)、ペリシテびと(13章・1節)らに繰り返し攻められたことについて、それを「イスラエルの民が神に背いたこと」の結果と考えて解説されているのである。

そうしたイスラエルの民の背信と忘却の繰り返しを振り返ると同時に、現状の外敵の諸勢力もあったためか、サウル王が立てられるようになり、そして「神」の信仰が結集された形である。その後、背信のため悩まされてきた外敵にたいして、再度信仰を得た成果なのか外敵制圧となって、「サムエル記上」14章・47ー48節の時点で一段落している。



[狙い済ましのアマレク人]

さてサウルとダビデの分岐点が何であるかと言えば、「出エジプト記」17章・8ー16節のアマレクとの戦い、「申命記]25章・17ー19節のアマレクにたいする対応にある。そしてサウルの場合、神の発するアマレク根絶の指令に背いて彼らを残した(「サムエル記上]15章・9ー11節)ことにある。

しかしアマレクびととは、一体どんなものなのだろうか? 勝手ながら想像するところ、「申命記」の箇所を見れば、まるで人々が弱っているところを襲う【自集団の思い図り】に終始する人々であろう。エジプトびとの統治の場合は、まだ勢いが増すイスラエルびとに権威を感じたための策略であって、会話ができる宿敵であったが、アマレクの場合は、会話をしない外からの狙い済ましに徹する敵であろう。旧約聖書側では、寄留の他国人を虐げてはいけない(「出エジプト記」22章・21節)と記されているが、アマレクびとにとっては、通りすがりの他国人も【自集団の思い図り】のための道具であったかのようだ。

ダビデにとって敵となっていたサウルだったのだが、あるアマレクびとからサウルの死の経緯(「サムエル記下]1章・6ー10節)を、ダビデは聞く。そのアマレクびとの話は、ダビデとサウルが敵対している事情を思い図った嘘であったが、ダビデは「サウルを殺した」と言ったことで、そのアマレクびとを撃った(同書・1章・14ー16節)。

おそらくここで意味することとは、アマレクびとが【自身の思い図り】に終始していたことへの戒めもあろうが、他に、サウルとの敵対関係とは途上なる「神」の理念における闘争であって、ただの武力による生き残り競争ではないことが含まれるのだ。つまり裏を返せば、アマレクびとの場合には何の「神」の理念もなく、【自身の思い図り】からサウルを殺傷したと平然と説明し、また他者の理念闘争している場面を狙いすましながら、【自身の思い図り】のための参入に徹しているのである。きっとダビデが撃った根拠も、それゆえだったと思う。

以上の推測から、旧約聖書が見たアマレクびとについて、それを【自身の思い図り】に終始した人々と解釈しておきたい。彼らは神を恐れないばかりか、神を恐れる人々を利用するのである。

すれば、そのアマレクびとの特質についてサウルは充分に理解していなかったと言えるのであり、その結果、そのサウルの無理解や、その無理解が絡まりながら生じる様々な理念のために、やがてダビデと敵対することにもなったと考えられよう。

旧約聖書では、"理念的闘争相手"と、"他者を全くの道具と見て自らの思い図りに徹するだけの敵"とに区別されているのかも知れない。「士師記」で記されているとおり、イスラエル側自身の繰り返される神への背信が外敵の侵入と結びつけられているのは、ある面、外敵との理念闘争の状況と解釈されているのであって、一方のアマレク的な狙い済ましとは、信仰と背信の闘争舞台を、こっそりと外から利用するがゆえの敵とされている点で異なっているのだろう。

同じく「サムエル記下]4章では、理念闘争の宿敵イシボセテと、一方の狙い済ましの略奪者レカブとバアナとが、サウルとアマレク人と等しい関係で再現されている。(ただし、こちらはベニヤミン系統内部の謀叛や裏切りか?)旧約聖書の「神」と言うか、少なくともダビデの「神」では、敵方サウルとなされる「神」の理念闘争と、その「神」の理念闘争から外れた覗き見的なアマレク人との闘争とは区別されている。



現代社会を見れば、中にはイシボセテ殺害を果たしたレカブとバアナを喜んで自らの人脈に引き受けようとする者もあろう。ただしその引き受けは、単なる武力の勝敗にこだわる考えにあるのではない。「そんなダビデのようなことをしても通用しない世の中なんだぜ」という狙いすまし評価への適応、そして自らもその狙いすまし評価で人々を振り回したいと言った思い図りが働いているものなのである。つまり武力の勝敗を責め立てることによって減退さようとすることにはあまり効果はないのであり、【狙いすまし的な評価の効果】を充分に監視できる知識が、全体的な大多数に普及する必要があるのである。

はっきり言おう。現代のマスメディアとは、【アマレクの人々】である。政治家を自集団舞台にお招きして、自集団ペースで狙いすます芸能人なんかはアマレク人の代表格と言えよう。昔ならばダビデとサウルの理念闘争が中心となって会話が進んでいたが、次第にダビデとサウルの闘争を実況中継するアマレク人の発言が権威を握ることとなって、歴史が動き始めたのである。旧約聖書では「神」によって理念闘争していたが、現代マスメディアは「言論の自由」によって、他者の理念闘争につけこむようになったのである。

全くアマレク人的な政治評論家に苛立ちを感じることもなく、政治家へたいする不満の代弁者として重宝されているのだから、アマレク人からすれば笑顔が止まらず、人々も恵まれた不満の持ち主である。まあ、ダビデとサウルの争いがわからないし、近所の会話舞台を続けるためにアマレク人の御言葉を欲しがっている人々なのだから、仕方あるまい。全体を見ようとする意見は、全体を見れない大多数の間では、相手にされないのである。

いやはや、「勝負処とは全体を見れない大多数の喜びと不満。そしてそれを狙いすますアマレク人同士の人脈形成さ!」と、卓越したアマレク人の、何やら言葉に出さぬ笑顔が輝く、そんな今日この頃である。



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  1. 2010/08/04(水) 22:33:34|
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