思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

月へ帰れない猫 大分県

「踊る大捜査線」には、ユースケ・サンタマリアと深津絵里の大分県出身者の二人が出演している。そしてその二人を見ていると、何だか社会的な場にたいして一歩引いた自己の領域があるようで、共通性を感じてしまう。共演者である秋田県出身の柳葉敏郎の場合、一世風靡セピアにおいて東京中心文化やテレビ中心文化からは一歩距離を置いたと私は見なしているのだが、大分県出身の二人にも、その一歩置きの意識にあると思われるのだ。

そもそも「踊る大捜査線」それ自体が、東京中心文化やテレビ中心文化と一歩距離を置いたものなのかも知れない。ただ、いかりや長介には東京中心文化の傾向があるようにも思えるのだが、しかしそれは80年代からの伝統離反の風潮にたいする伝統主義的立場にあって、現行のテレビ中心文化からは一歩距離を置いていた存在である。

そこで大分県の一歩置きについて考えてみようと思うのたが、ユースケと深津絵里には、都会文化やテレビ文化への憧れや至上性は極めて少ない。また大分県文化の放射や宣伝に重きを置いている訳でもない。おそらくそれは、大分県では「赤猫」意識が育てられるからだと考えられる。「大分の赤猫」、「臼杵の赤猫」、「平清水の赤猫」と呼ばれているらしく、総じて「大分の赤猫根性」と言う命名もあるようだ。

ちょっと大分県の県民性について先人の記述を調べてみると、淡白、柔軟、利己的、、無愛想、協調性に欠け、大勢順応型ではないと、「猫」の雰囲気がたっぷりである。ざっと大分県の著名な方々を思い浮かべてみても、素地に猫性があるものと、それを支持したい。まあ一見すれば、マイナス評価が満載と言った感じだが、それは、ある時代的なプラス評価の尺度を抱いているためにそう思えるのであって、私としては共感と好みが満載といった感じである。

大分県の赤猫性と対比する意味で狐さんについて考えてみようと思うのだが、秋田県では人間の猜疑心を試し戒める「髪剃り狐」がいた。しかし大分県では、一休さんのようなトンチの達人、吉四六さんなんかがいて、狐とのトンチ合戦で対抗勝利する「狐つまみ」という伝説が言い伝えられているらしい。秋田県では狐さんが人間の企みを監視してくれたが、大分県では人間のさらなる企みによって狐さんが撃退されてしまっている。そのため大分県では現世の人間同士の間で生じる企みごとを監視してくれる存在が追いやられてしまっているのであり、結果、吉四六さんのような知恵による、自身の利益や保身術の獲得を第一目標とする赤猫性が育つことになった。

思い返せば、70年代前半、学生運動や団塊志向が減退したため、全体的に個人主義的理念が促進され、猫の自己保身への憧れが生じたのであろう。大分県出身のかぐや姫の活躍となった時期に相当する。「神田川」73で歌われた「若かったあの頃 何も恐くはなかった ただあなたのやさしさが 恐かった」とは、「黒猫のタンゴ」69のような一方的可愛がりややさしさに戸惑う黒猫状態を意味する。また「22才の別れ」75では、目の前にあった幸せにすがりつき、知らないところへ嫁いでゆく自己保身と、そして取り残される側の、双方の猫状態が表された形なのだ。猫とは、周囲の状況変化について責め立てることもなく、引き続き自己保身に注意しながら周囲の状況を見続ける性質にあり、ある意味、月に帰れないかぐや姫状態となったのであろう。

そして「なごり雪」75、「夢一夜」78になると、"大人"という文句が入り、"猫"の要素が削られてゆく形へと変貌した。それは時代的潮流の中での自己保身に"大人"が必要となったことを意味し、月に帰れないかぐや姫は、背中越しに月を感じながら現世の夜を過ごさなければならないと悟った70年代後半なのである。全く秋田県では狐さんが現世を監視している意識が残されている感じだが、大分県では狐さんは追いやられ、かわりに帰れない月が現世を監視する雰囲気に移ったのかも知れない。

比べること愛知県の「なめ猫」は、大分県の「赤猫」とは異なっている。愛知県では漠然とした社会的圧力と自己工夫の関係が主な課題で、少しは猫的な知恵でもあるのだが、しかし大分県のような月を背中に感じる影らしきものに欠け、その滑稽な人の自己工夫を笑ったり、また自身の自己工夫を笑ってもらうことで人とのつながりを求め合う「なめ猫」が必要とされる文化なのである。徹底して自己保身に集中し、かつそれぞれ各人の自己保身を観察する気力は愛知県にはなく、「なめんなよ!」と言った漠然とした社会への対抗を見せたい方向にある。つまり秋田県の狐さん、大分県のお月様のような現世の監視役を文化的なつながりを潜めていないのである。あえて比較的大分県文化に近い特質である、わざわざ笑う必要がない無愛想を宿したあみんの「待つわ」82に求めるならば、愛知県の現世監視役とは「青く広いこの空」であって、80年代以降の狐さんやお月様の伝統的な象徴の全国的減退化にある。それは総和社会についての監視役がなくななった結果、空間内(広い空)の個々人の運動の総和を社会と見る力学的社会観の促進化状況を意味する。

個人に加わる監視圧力とは、愛知県においては漠然とした全般的社会である。しかし赤猫の大分県では、他の赤猫たちの視線が監視圧力で、自らも赤猫視線により他の赤猫たちを監視する文化なのだ。それは東京文化についても反映する。愛知県も大分県も、東京中心文化への至上的な憧れが少ない点では似ている。しかし郷土文化の重視の度合いで異なる。

愛知県は大阪ほどに東京中心文化をライバル視することなく自らの愛知文化で満足する。宣伝力が強い東京中心文化では、それなりに溶け込み、出番がなくなったら再度愛知文化の居場所に戻る。そもそも東京で自らが一旗上げたという気持ちがないから、愛知県への出戻りにも何の自尊心の傷は生じない。しかし大分県の赤猫は、東京中心文化の人々についても赤猫の一種と見ているのだ。大分県で暮らしている時から、テレビの人々の赤猫性と実生活の大分県民との赤猫性のちがいを感じ取っているのである。他都道府県の人々が大分県の赤猫根性と命名するかも知れないが、当の命名する側の人々の赤猫根性の特徴を大分県の赤猫は目を凝らして見ているのである。大分県の赤猫にとって郷土文化についての愛着は身の次であろう。いや、個人主義的な赤猫性のゆえに、郷土文化への愛着性が似合わないのである。ただ遠い将来、赤猫同士が赤猫文化を共有人脈化し、全国的な素朴な赤猫性への監視役として進出しうる可能性があり、同時に早期の実現に期待したいところだ。

さて赤猫とは、周囲の様々な赤猫たちに囲まれて育つものである。それぞれが自らの保身に注意しながら、互いに様々なことを言い合う赤猫たちである。当然、東京中心文化についても、そうした図式で眺める大分県の赤猫たちで、キーワードは【自己保身】と【言葉の効果】だ。赤猫たちは「人脈」について漠然とした集団とは見ない。必ず個人個人を基調として人脈を解釈するのである。それは「世間」についても同様で、個人個人に世間を見るだろう。そのため「世間」という言葉の効果の方を見るのであって、それを自己保身と意識的に調整するのである。吉四六の伝承話を見れば、その一般的世間の習慣化された見方を逆手にとった、自己保身と言葉の効果についての赤猫性で彩られている。

そしてその赤猫性を新しい形態に仕上げた人物の一人が、大分県出身のユースケ・サンタマリアなのである。彼の特徴には、一つに高田純次ゆずりの"いい加減発言"がある。しかし「いい加減」と言っても、それは単なる出鱈目ではない。実際、「天然」などと常識が見えていない的外れな発言とは見なされていないことからして、彼が常識的見解を計算監視しているだろうことを我々は感じているのである。

そのユースケのいい加減発言の特質とは、簡単に要約してしまえば【ものは言いよう】である。彼は吉四六のトンチを引き継いだのであり、その代表例に「悲しい木」の話を挙げておいてよいだろう。赤猫は常識を頼りとする全般的多数にたいする言葉の効果を見る。常識的意見に平穏無事の生活を続ける人々と、それに不満を抱く人々の双方を見るのであり、その不満側の気持ちを頼りとしながらも、満足している側に恨み憎まれないように工夫するのが、「いい加減発言」の秘密である。つまり「いい加減発言」にも意外と常識的知識があるのではなく、「いい加減発言」とは常識的知識の社会的効果が主題となっているからこそ生じるのである。

逆に言えば、「いい加減発言」とは常識のいい加減さを訴えているのである。常識の論理に潜む【ものは言いよう】の仕組みを、吉四六さんの方法を見習い逆手にとっているのである。その逆手取りは、ある面ユースケ個人のみの言い訳のようにも聞こえるのだが、しかし常識的な発言の側にも言い訳が潜んでいるのである。突き止めればそれも個人の利益のためであって、さらには匿名多数の集団で正当化していることを、大分県の赤猫は洞察しているのである。その彼の言い訳上手には、責め立てられないように色々と工夫されてもいるのだが、心底には責め立ててもらうことで、常識的言い訳が責め立てられないでいる理由を知らせたい意図も潜んでいるのである。



調べれば、徳永英明の「最後の言い訳」88は、大分県生まれの東京育ちである麻生圭子による作詞である。一体どのくらい、彼女に大分県の影響があるのか定かではないが、そこに赤猫性を感じずにはいられない。伝えようとすれば言い訳にならざる負えないため、結局は伝えることはできない、そんな昭和男の夢追いと一人前自尊心の姿が記されている感じだ。それは男自身が自ら書いては間抜けで、しかも嫌みになる歌詞である。きっと、その役割は彼女に任されたのであろう。

実際「最後の言い訳」は、女性が書いた詞であることが重要である。男側の、わかってもらいたいわずかな期待と、しかしわからないだろうという経験的知識による自信が、実際は女側に気付かれていたのか、あるいは歳をとって見出されたことについて、歌により男側が感づく歌詞なのである。そしてどちらが見ていて、どちらが見られているかが、よくわからなくなる曲なのだ。歌とは、気持ちや心を込めるものとは限らないのだろう。

しかし時は流れている。浅香唯の「セシル」88も、ユースケの「いい加減発言」へと向かわなければならないと思う。隠すための嘘、騙すための嘘、見せたい嘘、見つけてもらいたい嘘。嘘にも色々ある。そして嘘とは必ずしも真実を隠しておくためのものとは限らず、時として自らも知らない真実を求めるがためにある。

いやはや、度々の我が自説のほど、もし寛大なる大分県民のみなさんから睨まれたのならば、私も上手に体を丸めるしかないのかも知れない。

月あかりに照らされて猫は鳴く。

「悲しみよ こんにちは」



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
スポンサーサイト
  1. 2010/07/12(月) 17:10:05|
  2. 他人事天国
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:0
<<言葉で染まる薔薇 兵庫県 | ホーム | ずくなし 長野県>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://gold1513.blog48.fc2.com/tb.php/124-c7876c98
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

7月15日 言い伝えから日本人が学ぶべきこと

■考察■ 「チャンスの神様には前髪しかない」について考える (うむらうす) http://soap.s216.xrea.com/umu/mt/archives/002010.html ひらけば匂ふ玉の言の葉ぷんぷん日記: 〈屁〉の三徳という賛辞 http://pu...
  1. 2010/07/15(木) 19:40:29 |
  2. はじまるよ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。