思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

ずくなし 長野県

野球選手で名を上げた落合博満は、秋田県は男鹿の出身である。男鹿と言えば「なまはげ」で有名な土地柄で、怠け者を懲らしめ災いを払う行事が行われる所である。そんな「なまはげ」の土地で育った落合博満が後に夫人と選んだのは長野県出身の信子夫人で、長野県にはおおよそ「怠け者」を意味する「ずくなし」という方言がある。

「ずく」とは、おおよそ「やる気」を意味する言葉なのだが、細かく言えば、【共有された必要性】と【面倒くささ】が含まれる【義務的でない】作業について、その作業を行える【余力時間】がある場合の、【やる気力】のことである。

人から何か仕事を頼まれた場合の、「ずくがない」と言った断り文句は、やる気力がない状態であることに加えて、その仕事の必要性を認めていることも表している。また学校など余暇で行く事柄ではない義務的な場合には、「学校へ行くずくがない」とは言わない。宿題をするように施す命令にたいしては、形式ばった先生などのいる義務を感じる場所では使われないが、家庭や友達間では「宿題をするずくがない」と表明することも可能であり、必要性と面倒性の前提のもと、余力時間におけるやる気力のなさを表現できる。趣味友達間での「ずくがない」では、本来好きなことなのだが、面倒でやる気力が出ない最近の状況を表せる。そんな共に必要性を意識する事柄についての「やる気」のことが、「ずく」である。

もう少し踏み込んでおけば、丁寧さやタフさと言った「マメ」の意味がある。「ずくのないやり方」とは、マメではない、むしろ最低限の仕事で終わらせることの方に工夫を凝らした、そんなやり方について名付けられる。いやいや仕方なく、ただやる気がなくだらたらと作業をすることにも使われないことはないが、面倒を意識して手を抜くことに懸命な、そんなやり方を称するに相応しい言い回しである。そんな意味で、"やる気"よりは"面倒なことをやるマメさ"、"労を惜しまないマメさ"を意味する「ずく」である。逆に「ずくがある人」とは、「マメな人」とか「物好きな人」など、我々が面倒でやりそうもない根気を見せる人について、やや軽蔑がこもった意味が漂ったりもする。

そこで「ずく」の語源を勝手に想像するのだが、それは「尽くし」から派生したのではないかと考えられる。たとえば、「力尽く」とか「計算尽く」と似た響きに聞こえるのだ。しかし"限りなく"の意味合いとは若干異なっていて、むしろそれは「世の中のために尽くす」といったような"自身の力(労)の消耗"と重なった意味合いにある。言ってみれば、「ずくなし」とは、周りへの力の消耗を抑える(労を惜しむ)自力保存の猫の暢気さのようなものであろう。実際、そんなに社会貢献といった気高き仕事にたいして用いられる「ずく」ではないのだが、しかしもともとの由来には、おそらく気高き偉人の尽力などの社会貢献らしき理念が関係していて、次第に庶民についての評価尺度へと世俗的に普及した方言ではないかと、そう私は推測している。

しかし今日の「ずく」にも「やらなければならない必要性」についての「尽力」といった意味が、少なからず含まれている。標準語の「やる気がない」や「面倒くさい」では、その時々の"個人の気持ち"のみを表現しているに限られており、その"必要性への尽力"の意味が立ち込めてこないのである。そのため長野県では、時に自らに「ずくがない」と感じることによって、逆に「ずくを出している」他者に、偉大さなり物好き加減を見るのである

標準語の「尽くす」では、おおよそ「限りなく」と「外部への貢献」の意味が混ざっているとみなせるのだが、長野県の方言である「ずく」の場合、後者の意味が隠れているだろうというのが私の推測だ。それと関連づけられる事柄については、標準語で「ご馳走さまでした」と表現するところを、長野県では「いただきました」と言うことにある。

標準語では、ご馳走に感謝をするのにたいして、長野県は、開始の「いただきます」だから、完了の「いただきました」と言う単純な理屈に落ち着いている。しかし一昔前まで全国的に見ても、「ありがとう」の他者賞賛ではなく「すみません」の自己未完了の表明が常套句であったように、長野県の「いただきました」も済んでいない未完了である任務日程へ向かうための食事摂取が完了した意味で表明されるのである。食事を準備した側も、自らの仕事を"食事摂取する側が次の尽くしを施すため"の尽くしと見なしている訳である。

標準語の「ご馳走様」の表現では、感謝をすることによって自らの食事摂取の意義がその対面状況の中で完結する雰囲気となるが、「いただきました」の表現では、食事摂取後のこれからの任務が主題であって、その任務配属への準備が食事摂取によって完了したことを表明するのである。特に年少者側が年配者の食事準備の仕事を「ご馳走様」と褒めるとは、それは充分にその様々な裏事情を知らない癖に示す、まるで一人前になったつもりの他者評価だとみなされる。たとえば年配者気分が年少者へ向けて語る「ご苦労様」と等しい響きなのだ。長野県では自分はまだまだ監視される身分と弁えて、自分の開始完了の報告義務に徹しなければならないのであり、「いただきました」とは、配慮が広く行き届いていることの、食事準備した側への意思表示でもあるのだ。

しかし標準語の「ご馳走さま」にしても、実際はそんな単純な意味合いだけではなく、米作りから自らの下に届いた様々な匿名多数の存在があって、今の自分が生きていることの感謝でもある。その感謝は"自分が今生きていられることの他者の支え"への感謝である。比べて長野県の「いただきました」は、相手の食事準備を語らず、自分の食事の開始と完了しか語らない「自己使命」への尽力に集中している。食事を準備した側にしても、直接的な感謝を求めない自らの広い配慮の尽力に「自己使命」が集中する傾向にもなりやすい。

特に年少者が用いる「いただきました」からわかるように、年長者側の広き配慮への自尊心や自己使命が生じやすい長野県であり、さらには他者を「ずくなし」と呼ぶことで、説明責任を果たさない自らの社会的尽くしに集中してしまう。また社会的に階層化されて行くと、自身の小集団で何となく定められる偏狭な「ずく」や「尽力」の理念が権威となり、あの2000年の田中康夫の県知事選で明るみになった、自己設定的社会貢献のみを主張するような保守政権の抵抗勢力の形となる。田中康夫も自身の社会的尽くしの理念に集中し過ぎて、議会との停滞と説明責任の不充分さのためか、2006年には保守系知事に席を譲った。



さて長野県出身の落合信子は、そうした「ずくなし」という方言を聞いて育った人物であって、当然、男性たちが「ずくがない」と自らの心境を語っていた状況を、長野県で幾度も目にしていた訳である。

おそらく信子夫人は落合博満の「面倒くさがり」、つまり「ずくなし」を見ていたのであろう。「ずくなし」の表現法からは、「尽くし」への欲求と、「面倒」と思っている心境を同時に読みとれる。そのため信子夫人は落合選手に「尽くし」の欲求があることと、様々な未来を想像しながら「面倒」と思っている心境を読んでいたと思われる。

多分、信子夫人は「面倒」の生じる理由を知っていたのでだろう。そして次々と落合選手の尽くし(ずくを出す)のための手順を提案したと言ったところだ。その提案が信子夫人のなす尽くしで、その落合選手の活躍結果が彼の尽くしとなる。もし長野県の「ずくなし」に「尽くしなし」を見ていた信子夫人とするならば、落合博満の活躍に彼の尽くしを見て、それに自身の尽くしが関わったという、【社会的な尽力の循環状況】を見ていたことになろう。

ところで信子夫人の顔を見ると、何故か欧陽菲菲の顔と似ていて、「ラヴ・イズ・オーヴァー」84の気持ちが見え隠れしてくる。「ラヴ・イズ・オーヴァー」では、別れの際に最後の養成を相手に残す形になっているが、落合夫妻の場合も等しく、夫婦意識と養成意識が混在しているのである。奇妙なことだが、落合博満は高校時代に「マイフェアレディ」の映画にのめり込んでいたらしく、そこにも何か因縁めいたものが感じられる。

つまりヒギンズ教授とイライザの養成関係が、信子夫人と落合選手の養成関係に似ているのである。落合博満自身は、その点、どう思っているのだろうか?「ラヴ・イズ・オーヴァー」にしても、それはヒギンズ教授がイライザに向けて歌っているようなものなのである。確かに男と女は逆転しているし、様々な観点からして異なっている部分もあるが、それらは養成と恋愛が混在している点では同系列にあると言える。落合夫妻がマスコミを通して見せたい事柄とは、【夫婦愛】や【養成手引き】と言うよりは、むしろ【尽くしの社会的循環】の方であろうと思う。

確かに我々も恋愛が関わらない仕事上の契約や共同作用においては、同様に【尽くしの循環状況】を見ている訳だが、落合夫妻の場合は、その恋愛みたいな事柄も仕事と同じように、その循環状況に含めてしまうのである。「マイフェアレディ」では原作「ピグマリオン」と比べ、"養成尽くしの後の恋"か、"恋の領域を超えている養成尽くし"かが、様々な人々による評論の問題点として横たわっている。落合博満はイライザの立場に立って、信子夫人の"養成尽くし""と"恋"とを、奇妙な形で融合しているのだろう。また監督としてはヒギンズ教授の立場に立って、選手をイライザに見立てていたとも言える。イライザは「ご馳走様」と教授の養成尽くしに惚れ込んではならないのであり、「いただきました」と自らの尽くしに集中し、教授の領域については、わからないことをわからないこととして自覚しなければならないのである。

つまり落合夫妻は、尽くしによる恋の発生てはなく、【社会尽くしの循環】をルールとした中での恋だと考えられる。長野県出身の山川啓介の作詞「時代遅れの恋人たち」78を見れば、「恋人よ 愛なんて 言葉は捨てろよ」と記し、「澄んだ水を喉に流し込むつながり」が一種の【社会尽くしの循環】の象徴とされている。そして「聖母たちのララバイ」82では、人々の尽くしを見ないための人々の時代的な戦士状況から、聖母の尽くしを暗示させる形となった。H2Oの「想い出がいっばい」83、「幸せは誰かがきっと 運んでくれると信じてるね」については、「大人の階段」が【自分で掴む自立】か、【周囲と自身の尽くしの循環を知ること】かの微妙な解釈闘争の分岐点となっている。同じく長野県出身・熊木杏里の「雨が空から離れたら」09、「傷つけたくて 傷つける人なんて どこにもいない」と歌われるが、傷つけるのは"社会尽くし"の場がないための結果で、"自己責任"の嘘を示唆させたものと拡大解釈をしたい。

全く海のない長野県には、地平線もない。そこはまるでムーミン谷のような、それぞれの人がそれぞれのことを言って議論に持ち込むところかも知れない。長野県の議論とは、地平線を共有する議論ではなく、谷間の多様性の中での自己主張の感じは拭いきれない。そのため「尽くし」にしても、個人的あるいは小集団的に設定される傾向にある。そのマイペースへの叱咤激励のために「ずくなし」の卑下評価が必要とされ、叱咤激励する側は説明責任が求められない自己設定的な「社会的尽くし」に邁進してしまうのだろう。

いやはや好き勝手言わせて貰う形となったが、長野県民の寛大なる御勘弁を得れると信じて、この場の幕引きとしたい。



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
スポンサーサイト
  1. 2010/07/10(土) 00:20:35|
  2. 他人事天国
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<月へ帰れない猫 大分県 | ホーム | えふりこき 秋田県>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://gold1513.blog48.fc2.com/tb.php/123-80697b85
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。