思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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ハガネの女 福島県

テレビ朝日系のドラマ「ハガネの女」。原作の深谷かほるは福島県出身、脚本の大石哲也と主演の吉瀬美智子は、福岡県出身であるらしい。そこでふと気になってしまったのは、福島県出身の女性のことで、野村監督の沙知代夫人やロト6のCMの伊東美咲に、何か共通性を感じたからである。



会津磐梯山とは、女の山である。一方の男の小原庄助さんや奈良の大仏、白虎隊は、女性の側から比較検討されるものである。(長田幹彦によって加わった詞もあるが、ただの個人的趣味が全国的に広まることの方が奇妙な話であって、もともとの意味に基づいた何か重なるものかあると考えられるのである)身上つぶしの原因、朝寝、朝酒、朝湯が大好きだった庄助さん。「もっともだ~もっともだ~」は、【道楽者の自業自得】を戒めるだけではなく、【実情を知らない大多数の噂声】の風刺も含まれているだろう。これと言って働く必要に迫られず世の安寧を願う奈良の大仏は、身上をつぶす心配がなく、庄助さんとは立場がちがう。磐梯山は奈良の大仏を婿にとるが、それは自らの生計を優先させる各人の独立自尊的勤労から生じる社会的混乱を鎮めてもらいたいと言った願い、あるいは大仏的な権威などは現世では当てにはならないと言った風刺かも知れない。白虎隊の死は、社会的安寧のための、あるいは忠義、少なくとも独立自尊的ではないところの理念の象徴である。

[権威]と[改革]の闘争、それに[独立自尊]と[忠義社会的活動]の混じり合った中で、人それぞれが様々な評価を下し合うがために翻弄される男たちの社会、その状況を見つめる福島県女性である。野口英世の「社会的貢献」の評価が行き渡っている中、円谷幸吉はオリンピックと自身の婚約について、相当に周囲の意見に翻弄されていたことだろう。

おそらく福島県とは、安定権威側と不安定民衆側の関係を互いに観察し合う文化であろう。戦後のテレビが普及してからの福島県出身の有名人男性とは、西田敏行、梅沢富美男、佐藤B作、斉藤暁、なすびと、現代風若者世代のスマートなさわやか男性の面影などない。神風特攻隊の死は白虎隊の死でもあり、彼らに独立自尊ではないところの社会的活動を見て、自身にそれがないことを意識せざる負えない地域なのだろうか。たとえそれを振り切って格好をつけたとしても、福島県では全国区ほどには黄色い声が起こることがなかったのであろう。

その一つ、梅沢富美男の「夢芝居」82は小椋佳の作詞作曲であるが、その「小椋」のペンネームが、彼の大学時代に滞在した福島県の学生村付近に住む住民の姓名に由来していると言うから、全く不思議である。梅沢の女形が成し得たのは、舞台経験の熟練と言うよりは、少しは福島県女性が持つ社会観察力とふれていたことが関係していたように思えてくる。男と女が操りつられ、心の鏡が覗き覗かれるには、ある程度互いに社会観を監視し合う文化でなければならない。

また西田敏行が出演していた「池中玄太80キロ」にも、やはり坂口良子のような決断力あるテキパキしたサバサバ系の女性が必要だったのだろう。西田敏行と親交が深い福岡県出身の武田鉄矢はと言えば、堂々と「金八先生」で指導力を発揮していた点で対照的であった。福島県男性は一般的に女性、つまり磐梯山の力には頭が上がらないのである。

さて福島県出身と言えば、「ヤッターマン」のボヤッキーに、当作品に携わった笹川ひろしが福島県出身である。やはり福島県男性には決断力のある女性が必要なのか、ドロンジョ様は欠かせない。ボヤキの異名をとる野村監督に、夫人沙知代夫人が福島県出身という奇妙さもある。権威などにボヤキを持つ野村監督からすれば、色々文句を言われても、偏狭だが社会への闘いに挑み、そしてその偏狭さのゆえ不評を買ってしまう夫人を支えれるのは俺だけだという使命感で、沙知代夫人に引き寄せられるのだろう。ボヤキとは民衆の声なき声としての権威側への要求と同時に、自分には権威持続の人脈や能力のない自覚から生じる。愚痴の場合は自身の不満発表のみになってしまうが、気の利いたボヤキには、権威と民衆の社会観や自らが出来る能力がないことの人々の共感が加わるのであり、会津磐梯山のような[権威]と[改革]、それに[独立自尊]と[社会的任務]などの様々な立場からの評価が混在する社会状況を踏まえ、その風刺や気持ちをまとめることが必要となる。

そして会津磐梯山から考えてみて、福島県女性には男性が女性を抑圧してきた社会として主張するフェミニストは似合わない。福島県女性は、男が権威にたいしてぼやいている状況を通して社会を見るのである。「ハガネの女」は、男にたいする鋼ではない。 男が出来ないのならば、女の私がやるである。主人公は適齢期を過ぎた未婚であって、「ヤッターマン」のドロンジョ様と同士なのだ。男のボヤッキーとトンズラでは無理なので、自らが指導力を発揮するドロンジョ様である。

「電車男」でのヒロイン役を演じた伊東美咲にも、男の頼りなさに社会を見る福島県女性の何かがあろう。全国区の女性ならば、権威に不満があるために生じる電車男への関心、あるいは友達からの評価を気にする雰囲気が出てしまうだろうし、反対にそれらを気にしていないという計画的気張りが表れてしまう。たぶん福島県女性は、男の頼りなさに魅力を感じるのではなく、そこに社会を見るのである。たとえば唐橋ユミの自信の持ち方などには、何か伊東美咲と似た福島県女性に独特の安全地帯確保の社会観意識を感じる。そしてロト6の革命先導役については、男に社会を見たための行動であって、ある面、【権威とボヤキ】の社会構造に詳しい福島県女性ならではの結果である。そのため自らは権威側に付いても、ボヤキ側を見下すことはしない。そんなことをすれば、他の福島県女性から社会構造を見れない思い上がりと監視されるからである。しかしたいていの人々が恐縮せざる負えない場面について、自らの安全地帯の秘密性に自信を持つ傾向はある。

それから顔の雰囲気が似ている伊東美咲と中山美穂であるから、両者ともに権威とボヤキの社会状況の意識がありそうだ。「世界中の誰より」と全体を見てから自身の役割と合う男性を選ぶのは、やはり権威とボヤキが基準になるのかも知れない。



そのかわり福島県女性には、全国区となると、その社会意識の自尊心が生じてしまうのかも知れない。権威側についたのならば、野口英世のように社会貢献がなされているか監視される福島県男性だが、女性の場合は薄れるからだ。また全国区へ進出すれば、福島県女性にはほとんど関係がない"自立的に見られる女性からの評価"や"時代的女性としての男性からの評価"に意識が集中している全国区の女性ばかりなので、自身が全国区に進出しえた[権威とボヤキ]の社会観はライバル視されることなく、敵視されることもないのだ。そのためメディア界の需要に応える形で、翻弄する人々を舞台化する側のみが仕事となり、肝心の翻弄する側からなされるところの、舞台化している側へのボヤキについては触れられなくなって行くのだ。

そして「ハガネの女」のテレビドラマ化という全国区化とは、もともとの福島県性であるボヤキについては排除され、そして一面的な社会的観察力のみを発揮した作品となった。それは現代全国版への脚色のため、人脈や文化を背景に見栄や虚栄を張り合う福岡県の意識によって仕上げられたように思える。

それはまるで80年代以降の、とぼけた社会学者や心理学者気分にある。「同窓会~ラブ・アゲイン症候群」、「離婚シンドローム」とかのタイトルを見れば、何か自らの囲い込み社会学者気分を表明する80年代以来、さぼど変わらないメディア界文化の今日なのだ。

さて「勝ち組」や「負け組」の言葉で争っている現実を題材にし、それを人々に知らせるふりをしているテレビドラマ「ハガネの女」だが、その「勝ち組」と「負け組」の言葉で争そわれる場が、どういう限定された場面においてなされるのかについて全く触れようとしなかった。その言葉を始めに使う人物とは、その場に集まっている様々の人々が、どのように反応するかの幾つかのシナリオを、あらかじめ持っているのである。つまり「勝ち組・負け組」の社会学の解釈の転換を試みた感じではあるが、その「勝ち組・負け組」の言葉でそれぞれの反応を試し合っている社会学を示さないのである。その反応を試し合っていることは原作者や脚本家も知っているのだが、それには触れない。子供の喧嘩に手を出さずに、子供の喧嘩を題材て自らの仕事の箔付けに成功したという感じである。それを「子供の問題解決能力の成長をそっと見守りながら、しかもその問題な関心を示す制作者の社会貢献」と見るか、それとも「子供のいざこざを他人事のように見ながら、しかもそれを仕事にして金を稼いでいるチャカリ者」と見るかは、自由というより、その力関係の互いの狙いすましが、現代日本の陰の勝負所となっている。

「格闘リングに上がって台本どおりに演技して下さい。さもなくば、あなたの仕事はありません」

そんな雰囲気を全体に振りまいておいては、自らは実況中継の解説者の気分で、俳優や子役を使うのだろう。一般の学校生活の方ではなく、仕事の需要供給の暗黙の了解的な社会学の方が働いているのである。そこではリングに上げる側についての時代的社会的な実況解説の力が裏方同士で充分に吟味されない。いやむしろそれは原作者や脚本家の専売特許になっていて、かつそれに触れようとする者を排除しようと秘境的知識を働らかせており、その秘境的知識の力を見せつける形に仕上げられる結果となったテレビドラマ「ハガネの女」である。

原作とテレビ脚本のちがいについて、よくわからないが、ハガネの女はもっと限定された職業で頑張るだけではなく、その現場を他人事のごとく利用しているあらゆる人々の秘境的知識にも目を配った方がいい。まあ目を配ったところで、その匿名的な秘境知識の力は絶大で何から手を付けたらいいのかさえ分からず疲れるだけなので、時代的に[頑張っている自分]に見える程度のハガネにした方がよさそうである。すれば秘境的知識の力も手助けと共に賞賛もしてくれるだろう。もはや福島県女性にボヤキの収集は期待できず、権威の秘境的知識に吸収される時代なのである。

いいたい放題のお話でしたが、寛大なる福島県民のみなさんに御勘弁を。「会津磐梯山」は、人それぞれ勝手に、他者を評価判断している状況を見下し、白兎を監視するが如く歌え!



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