思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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伝統知らずの心理学

血液型性格判断のような【先天的遺伝】にたいしては、【後天的環境】がある。そして後天的環境説の中には、主として幼少期から青年期にかけての子供についての教育環境が重要な対象とされてきた。「甘やかしすぎ」、「干渉のしすぎ」、あるいは「過保護」「過干渉」などの、子育てについての評価がそれに当たる。要するに育児教育の領域にたいして、集中的に性格形成論にあたる後天的環境説が向けられてきたのである。

その育児についての後天的環境説とは、実は育児者をプロレスのように闘争舞台であるリングにこっそりと上げ、自らは心理学者の名のもと実況解説者に割り込んだものである。

例えば現在も使われる「過保護」、「過干渉」などは子育てをする育児者への評価である訳だが、それは大昔からあった言葉ではない。「過~」という表現のとぼけ具合とは、まず「過~」と育児者へ恐縮させておいて、あとは自然と自らはアドバイスを与える立場を獲得できるようにすることである。保護や干渉は大事だが行き過ぎていると評価するものであって、過保護や過干渉の問題点を語るが、当のお手本となる保護や干渉をなしている人々の意識、物の見方を伝統や時代変化の両者を踏まえて、調べ紹介してゆくことに疎かであったのである。

その「過~」という発言がはじめに出始めた時に、その新たな解説者自身についての吟味がなされなかったことが、まさに現在も続く現代心理学のとぼけた知識人的もったいぶりを育てることになってしまったのだ。父親と母親の間で子供の育て方について議論となったり、近所のそれぞれの家庭における育児方法を互いに評するために、すんなりと「過~」と使われるようになってしまったために、新しい心理学者たちは、監視や吟味を充分に受けることなしに、まるで大衆需要に応えるかのように、ただ問題点の解説を供給したのであろう。

私が思うのには、恐らく育児への評価強化は、「団地入居募集の開始」56から「団地族」58に「核家族」67と学生運動の終焉に象徴される団塊志向の減退、そして「しらけ」70の流行語あたり頃から促進されたのだろうと推測している。伝統的な祖父母や近所社会から離反し、教師や両親らに教育の責任が求められ始め、「過保護」やら「過干渉」なる評価言葉が優位になり、それにまつわる解説者役に心理学者たちが割り込んだのである。1971年には土居健郎の「甘えの構造」が刊行されたが、それは結果的に「甘やかし」と言った用語の、育児評価の強化に拍車をかけたものになったと思われる。

いやはや急速な核家族化となり育児についての新しい問題点のスタンダードな解決法が求められていた時代的状況はわかる。しかしそれが「心理学」という理論に基づいた信憑性がある見解と見ていた風潮が、まさに【伝統と時代変化】を見損ない、おとぼけ知識人の役割を社会的職業として新たに認めることになってしまったのだ。逆に言えば、とぼけた心理学者という職業が現在まで続いているのは、【伝統と時代変化】についてなおざりにした結果と言えるのである。旧世代は自らが子供の時はどう育てられ、また自らは子供をどう育てたかについてを述べ、新世代の変化した時代状況と照らし合わせながら工夫しようとする世代間の対話が足りなかったのであり、ただ新規心理学だけに大半を委ねてしまったことが原因である。

心理学の台頭。それは個々人を評価する力学的社会観と固く結び付いているものである。育児者の個々人を評価し、子供の個々人を評価する。そして各個々人の力が合わさって社会が出来上がっていると素朴に考える社会観なのである。新しく普及した心理学という【文化環境】が生じたことと、それまでの伝統的【文化環境】と比べて、その文化環境によって形成される個々人の意識形態について考えなかった。せいぜい核家族化や電化製品の普及などの社会環境であって、文化環境について追求していない。

電化製品の普及による余暇の楽しみ増加を「文化生活」と解し、博学な知識人を「文化人」と呼んでいるのだから、到底、あらゆる人々がそれぞれの意識(思い)を外部に放射させ、かつ人々の意識に影響を与えているところの、漠然としたすべてを"文化"とすることからは、かけ離れている。喩えれば、ラジオ(語源に放射状の意を含む)のように、個々人がいつも電波を放射し続けていて、なおかつ人々は随時その影響を受けているようなものこそが文化なのだ。文化遺産や伝統行事とは、ただ我々の意識によって受け継がれていくものではなく、むしろ我々にたいして放射し、我々に漠然としたものを植え付けるものであるし、それは伝統重視の味方になる側のみに放射するのではなく、伝統軽視の側へも放射しているものなのだ。

もしそのような文化観があったのならば、心理学用語だけにさほど重い価値を置くことはなく、その用語を心理学者の意識が放射させた一つの参考意見と見れたであろうし、心理学者自身も新しい時代状況に役立つ心理学理論と自らの学者面に過信することなく、随時自らの放射させた心理学理論の社会的影響、文化的影響について気を配っていたであろう。現在の血液型性格判断について意識を考えてみても、【文化的環境】というものからは、はるかにかけ離れてしまっているのである。

では【伝統と時代変化】の問題については、どうなるのか。

ドラッカーの訳書「断絶の時代」から生じた「断絶」69という流行語、そして井上陽水のアルバム「断絶」72と、伝統旧世代と自由新世代の志向格差が意識された頃である。しかし「断絶」とは、旧世代と新世代の志向断絶のみではなく、旧世代の抱く"伝統と時代変化"の考え方と、新世代の抱く"伝統と時代変化"の考え方との断絶なのである。

問題点は「伝統を守れ」の実践的な呼びかけではなく、新たに生じた知識階級に向けての【伝統と時代変化】の理念欠如である。新たに心理について説き始めたのは、伝統的知識を蒙昧と見下す啓蒙主義的知識であり、かつ70年代以降の育児教育論などに認められる、心理学者という限定された職業的知識でもある。現在の心理学は大半がそうした職業的啓蒙主義の態度であり、大衆的もそれを受け入れている。

リースマンの「孤独な群衆」で使われた用語を借りれば、"伝統指向型"と"内部指向型"の混在が生じた際の、新たに生じた内部指向型が抱いていた社会観や文化観についての解明が今日まで不足しており、エレキギターを弾くだけで「不良」と呼んでいた頃の意識には、大袈裟で偏狭な時代と思えたりもするが、別に現在でも文化的環境を放置している点では変わってはいない。内部指向型と言っても、ただ内部指向型について啓蒙主義的な現代心理学風の思考によって説明するのではなく、イギリス保守主義バークのような【伝統と改革】の立場からの、現に双方の旧世代と新世代がいて生じるところの、新たな用語や理念の発生にかんする歴史学や社会学が求められるのである。

ただ心理学の発展的改革をなしてきたと思い込んでいる自分に、職業的な社会貢献を見ている方々にとっては、現在にいたった自分自身を支えてくれた知り合いの援助協力を見て感謝することがあっても、学者であるにもかかわらず、全く【文化的環境】に囲まれた様々な人々の活動の歴史的経過と見ることはない。旧世代と新世代が混ざり合っていた、それぞれが文化的環境に囲まれていることについての社会学が進められてこなかったのだ。

現代の【文化的環境】を見ない心理学などは、結局、特定他者を評価し圧力を加えることで社会秩序を保とうとしたものであり、しかもその心理学の普及により、その文化圏での社会秩序の階層間に理論的な力が働き合っているのである。日本の場合は互いに「甘えている」と言った卑下評価力を互いに加えることで社会秩序を目指してきたのであり、その「甘え」の理論的武装の卓越に憧れを抱いてか、「甘えの構造」のベストセラーにつながった文化に相当していた。



70年代の歌謡状況を見れば、井上陽水の「人生が二度あれば」72、山口百恵の「秋桜」77が、伝統と時代の狭間にある代表曲である。両者共に両親に伝統的世代を見る傾向にあったが、特に「秋桜」では「あれこれと想い出を辿っては いつの日も一人ではなかった」と、過去から現在までの周辺状況の推移を見て、そして「今更ながら わがままな私」と、その歴史的かつ社会的推移を見ていなかった自分を確認している。しかしそこでは、その歴史的かつ社会的な推移についての意識を持続させようとしていない。

ここに70年代以降の団塊志向の減退からの結果論的な評価闘争の時代に入ることになったのである。中島みゆきの「時代」75、山口百恵の「秋桜」77、ばんばひろふみの「SACHIKO」79、クリスタルキング「大都会」80などでは"いつか笑える日"が目標となって歴史学的かつ社会学的視線が背中に隠れてしまっているのである。あるいは"めぐりめぐる季節"、"旅立ち"の理念に彩られた70年代であった。そのため新たに普及されてきた育児評価の言葉の出所を、伝統的理念から監視しえなかった。いや時代変化のため新たな育児法が必要と互いに認めたため、新たに互いの育児法に干渉し合うようになったのだ。



全く、子供に育て方について「過干渉」とやら評していた人々たちは、新たに他者の育児法にたいして色々評価を下す、自らの「過干渉」であることに触れなかったばかりか、立派な専門家とお呼ばれされていたのである。伝統的な文化環境から離れて自らが新しい時代の文化環境作りに参加していることを自覚せず、職業的な社会的貢献の参加と励んでいたに留まっていたのだ。実際の育児者たちも私たちはしっかり子育てをしていると励み、情報を交換し合ったりするのだろうが、しかし他者の育児法についてあれこれ問題点を指摘する場合には、それはとぼけた心理学者と同じく、文化的環境の歴史については無関心な啓蒙主義的自尊心の表れで、児童虐待の事件に不愉快を感じるだけで、理解の糸口さえも見えないだろう。

心理学は色々と後天的環境説として育児を取り上げたが、育児に限らずもっと文化的環境という全般的事柄までを見ていこうとしないならば、今後も職業的啓蒙主義の限定的心理学という囲い込み専門家気分を続けることになろう。もし文化的環境に関心を向けるならば、血液型性格判断の文化的環境の側面についても、そう難しい事柄ではない。

まあ様々な大衆の、様々な心理学的説明による闘争の時代ということで、この時代を生きていくために心理学者も大変なんだろう。現在の普及している知識とは、その文化圏内の社会構造の思考形態に都合のよい限定されたものであり、その普及知識自体が文化的環境となって人々を囲んでいる。私からすれば、大衆の無知はともかく、せめて心理学者くらいはと願うが、耳にすら入ることはないだろう。大衆を調べる能力には少しばかり自信があるが、大衆にそれを普及しうる能力は私にはない。よってとぼけた心理学状況は、まだまだ続く。



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