思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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血液型性格判断の秘密

70年代後半には【伝統と時代】、【人々の様々な認識による風景】をテーマにしていた、さだまさしであった。そのさだまさしも85年には「恋愛症候群」なる、長き副題「~その発病及び傾向と対策に関する一考察~」を添えた作品を創作するにいたった。

日本では80年代から伝統理念からの離反が加速し、「~症候群」やら「~シンドローム」、「~コンプレックス」と、やたらに心理学的社会学的解釈が登場してきた。周囲から色々名付け名付けられる時代になり、さだまさしは「年齢 性別 職業 ツベリクリン反応 郵便番号の如何を問わず」、「手相 星座 サイコロ タロット 四柱推命 そのほか茶柱まで」、「注意力散漫 動悸 肩こり 息ぎれに変わり やがて頭痛 …… …… エトセトラ」と羅列の羅列を繰り返す。副題の「その発病及び傾向と対策に関する一考察」といった長ったらしさや、イントロの大学受験ラジオ講座と、ごもっとらしき解説者たちについての風刺も含めているだろう。新たにごもっとらしき語るオトボケ人が数々現れてきたが、なるほど伝統的な解説も負けていなかったと、あくまで言葉は言葉にすぎないもので、さほど真剣に聞くものではないと、そっと警告し笑わせてくれたと言った感じである。

井上陽水の「傘がない」73の頃は「テレビでは我が国の将来の問題を、誰かが深刻な顔してしゃべってる」と、その解説の庶民生活に及ぶ直接的な言論的圧力は、まだなかった。しかし80年代に入り、伝統主義の側のさだまさしが、「恋愛症候群」に至ったのである。さだまさしは、そもそも自身の伝統性が全般的に聞かれる種類の歌ではにないことを自覚した上で、あえて歌ってきたと言える。しかもその伝統性への嘲笑や茶化しとは、全般的な庶民生活にも浸透している力であることをも意味し、その人々を対象にテーマを置くことができたと思われる。

もともとそうした立ち位置にいたから、80年代に次々に登場してきた心理学的、社会学的用語も、ただの近所によく見かける噂好きの人が言う他者評価みたいと軽く見れたのであろう。大多数の人々はと言えば、新しい解説用語(特に「ネクラ」83が代表例)を使う側になろうと努力したり、人から言われてヤキモキする状況に置かれるはめになったのであろう。



その「恋愛症候群」の中では、血液型性格判断の四分類が題材に採り上げられているが、それは一体どんな意味があるのだろう。さだまさしにとって心理学的解説はお遊びごとであり、それぞれA型、B型、O型、AB型についての人間観察に優れていた訳ではない。むしろすでに普及していたA型観、B型観、O型観、AB型観に詳しかったのであり、それに加えて血液型性格判断によってそれぞれ他の血液型のうっかり度を観察し合っていることが基礎になっているのである。「雨やどり」77で歌われていた、あの「キラリン」や「ポカリン」のような光景が、人々が自分以外の血液型に見ていることの象徴である。「秋桜」、「親父の一番長い日」でなされた父母、兄妹のそれぞれが見るそれぞれの姿により、【人々の様々な認識をする風景】を80年代前半の時代状況に応用したものである。

そもそも庶民的大衆意識に血液型性格判断が普及したのは、能見正比古の「血液型でわかる相性」71がきっかけであるらしい。団塊志向の減退し始めた70年代以降のことである。他でも考察されている事柄であろうが、血液型によって振り分けられた性格論のしくみには、欧米人性格と日本人性格との比較が関係していた節がある。日本における割合はA・O・B・ABそれぞれ、4・3・2・1であり、もっとも几帳面で協調性を優先させるがゆえ積極性に欠ける日本人イメージがA型に、そして技術開発などで世界進出に寄与する少数者もいるので、その独創性、周囲に振り回れずに様々な関心を示す少数としてのAB型となる。あとの二つはA型の几帳面と協調性の反対のもの、大らかな開放性とマイペースがあてられた。その両者の人数配分は日頃の雰囲気から開放的人々の活躍からO型、場を読まないちょっとした迷惑者がB型に割り当てられたような感じである。

ここでは血液型性格判断の理論内容の真偽や妥当性の議論などはどうでもよい。普及したのならば、その性格判断という知識を抱いている人々がいることの、その社会的現実が大事なのである。四つ分類されていることによって、それぞれが他の三つの型から自らのうっかりを見られては、かつそれを直す必要が求められないことにある。そのうっかりは自分だけではなく同じ型の仲間がいる訳である。そうした言葉のやりとりが各人それぞれの思考パターンとなって時代が進んだのである。

実際、出会いの際にはよく会話で持ち出されたりしていた訳だが、その話の持ち出し方や他者反応の観察に秘境的テクニックやらに自信顔を表した人物とかもいて、新しい時代の到来を感じたものである。性格判断の内容の真偽ではなく、その普及した性格判断の持ち出し方による様々な会話パターンに多様化され、自己優位に立つしくみを利用し始めたのである。それはもはやテレビなどを見れば、性格判断以外の会話にも、チャッカリしたテレビ至上意識や自己宣伝的な自己職業領域設定による言論の自由、そして特に占いコーナーに見られる自らの世話焼き役割立場の潜り込み的獲得へと応用され現在に至っている。

「恋愛症候群」とは、さだ自身の70年代後半からの【伝統と時代】、【人々の様々な認識の風景】を"それぞれのうっかり"によりサザエさん的風景へ仕上げた作品である。「サザエさん」は戦後間もなく福岡県から連載が始まったとのことだが、当時は「ウッカリ夫人とチャッカリ夫人」51~64といったラジオ番組もあったらしい。さだまさしは"うっかり"の社会学に触れたが、"ちゃっかり"の社会学までには触れていない。それもカツオ君では補いきれない領域に入った時代であったため、次世代に課題が残されたと言ったところであろう。前半は【人々の様々な認識の風景】をよく表した「恋愛症候群」だが、終盤の恋と愛のちがいに触れるにあたっては、80年代以降の小集団チャッカリ社会観への示唆的監視もしくは風刺は全くなく、伝統的理想に留まっている。



繰り返すこと、血液型性格判断の真偽などは、どうでもよい。真偽について議論したところで手が届かぬとばかりに積極的に使う、人々をワニ扱いする白ウサギさん達がいるのである。さだまさしが【人々の様々な認識の風景】を基礎として、70年代以降に普及した四つに分類された血液型性格判断を取り扱えた"それぞれのウッカリ"の社会学的見地にあったことを基礎に踏まえ、さらに薄ら笑い的に積極的に使っている者たちの秘境的社会観の利用状況を解説し、普及させることを努めた方がよい。いずれはそうなる時代になろうが、まあ自己実現や独立自尊の理念に縛り付けておこうとする者たちの白々しき騒ぎ立てにたいして、全く手が出せない状況どこらか、それに気付いた勢力の結束化さえも起こりそうもないので、我々が生きている内は無理だろう。

また政治だけについて評論している内は事が進まないし、メディア各人の政治発言者への監視意識の普及が必要になるのである。私から言わせれば、政治評論する者への監視意識が働かず、政治家のみを評論している日本の知識人や国民達に限れば、まだまだ余裕のある恵まれた不機嫌に見えてしまうのである。選挙開票速報を見て、解説者の張り切り具合に気持ち悪さを感じないうちは、まだまだだ。これからますますそうした解説者が入り込んでゆくだろう。



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  1. 2010/06/24(木) 19:52:51|
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