思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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「力学」的思考 日本社会力学

「老人力」98の流行語から「鈍感力」07「~力」の出版が花盛りとなった我が国、日本。もし私が著名な立場にあったのならば、「力」に依存する人々についての「パラサイト力」、「力」に群がる病的社会現象についての「力シンドローム」、それに成功した人々についての「あやかり力の達人」やら「カリスマあやかり力の出現」というタイトルで出版したくなる状況である。まあ、それぞれに一理あるのだろうが、何か独立自尊や自己啓発の理念を強固に振り撒きながら、自身は人々各人の「~力」の品定め評価の達人、もしくはメディア権威の品定め評価の小集団への従属化を目指しているようで、やらしい。全く言論の自由も結構だが、もっと【自己実現に必要な力】の評価書のバラマキではなく、小泉内閣時の「抵抗勢力」01のような、【我々が現実に受けて振り回されている原因となっている力】を総合的に解説するような、互いに社会観を漸進的に共有させていく領域を示して欲しいものだ。しかし、ただ他人事のようにお願いするだけなのも何なので、たいして関心を抱いてくれる読み手はいないが、社会的な力の考察を記して置きたい。



さて我が国には物理学などの分野に、【力学】というものがある。そのおおよその姿は何かと言えば、それは滑車を用いた持ち上げやニュートンさんの名でお目にかかった辺りの事柄である。そして問題となるのが、その日本語の「力学」である。そう、もともとの西欧の「力学」についての命名には、実は「力」の意味がないのである。

英語で「力学」とは、「mechanic」である。それは「機械装置」とか「機械構造」といった、俗に「メカニック」と呼ばれる意味なのである。他に量子力学、統計力学、流体力学などにも「メカニック」が用いられている。一方、磁気流体力学、量子電磁力学や熱力学のように、より「力」の意味に近い「dynamics」が充てられたものもある。

「メカニック」と「力」。この二つの呼び方には、大きく異なった物の見方(思考様式)があろう。大袈裟に言えば、メカニック思考では「力」を全体の機械構造の一部として見るが、力思考は「力」が合わさって全体の機械構造を構成しているかのように見るのだ。西欧では、太陽の周りを回る惑星たちは神が作った機械で、その機械を構成している一部分の力であるが、日本では、力によって作られた美しき惑星運動みたいに思われるのだろう。また西欧のメカニックでは、動いている機械を見て、その中の働いている【力の現実】を見るのだが、日本の力学は、力によって現実がどのように動かし得るを探る、現実の改革を目指す【実践的な力】のための参考書である。

「老人力」以来の「~力」の普及は、まさにその力学的思考の大いなる日本の開化なのである。彼らは社会のメカニックを見ない。いや、【メカニックな社会の知識】は、彼らの秘境的なものとして公表されないのである。世の中には力学的世界観を振りまいておいては、一方の自らは、その秘境的知識を通して世の中を見る助け合い小集団に属すように努力し、その社会的メカニック構造を維持しようとしているのである。

日本では「メカニック」とは宇宙や社会には見ず、現実を改革改良させる人間の技術による創作物としてのメカニックに限定されている。そのメカニックを創作する力を目指す独立自尊的な力学的思考で生き、その思考で人々を評価する文化である。「鉄腕アトム」のお茶の水博士、ドラえもん、「アラレちゃん」の千兵衛博士などは、その日本の限定されたメカニック観である力学的思考の産物の象徴である。(ただしドラえもんの場合は、その日本的な力学的思考の技術需要意識の中で、自分の活躍を探ざる負えなかったことを自覚しているようだ。そして鉄腕アトムは平和社会を作る正義の力を、アラレちゃんは周辺他者に負けない明るい独立自尊の力を期待された象徴であろう。)日本の社会的貢献とは、安易なみんなに喜ばれるメカニックの発明であり、宇宙的社会的なメカニック観の漸進的改革の領域については相手にもしないのである。

加えて、「万有引力」を考えて見てもよいかも知れない。日本では、まるで男女が惹かれ合う引力をイメージするのであろうが、イギリスでは「gravitation」と"水が低地に溜まる"のような意味である。ニュートンはリンゴが落ちるのを見て閃いたと言われるが、それはアダムとイブの失楽園物語から、リンゴを食べたことによって二人の間に神様がVの字の谷を作り、両者共に斜面を転げ落ちるイメージが象徴されるのだろう。二人が居ると引力が生じるのではなく、二人が居るとその合間に谷の坂が出来るのである。"fall in love"も同様なもので、神様が選んだ二人を見ては二人の間にVの字の坂を作り、そして恋という名の谷へ落とされるのだろう。ニュートンは、地球とリンゴの間に神が作った谷間を見て、その接触に向かうまでの下り坂における、落下の度合いと坂の傾斜の度合いの関係が思いついたのかも知れない。

また「反作用」とは、力を働かせた側が受ける跳ね返りの力みたいなものである。日本の力学的思考は、力を発し受ける【他者と自分】の存在意義を基礎に作用反作用を派生的な媒介物(あるいは個々人の工夫する技)として取り扱う。例えば関西の「どや顔」なんかは、その日本の力学的思考を顕著に示してくれる僕らの味方なのかも知れない。一方の西欧は【他者と自分】の存在意義と共に、【作用反作用のが生じる仕組み自体】にも存在意義を感じるのだ。日本語の"私"と"彼"は世界内にいる個体であるが、英語では"I"から見る"him"と、"he"から見る"me"なのである。また世界内の個体として見る場合には、"me and him"、もしくは"I and he"となる。つまり日本語は[個体が始原]の[動詞の発生]であるが、英語は[動詞が始原]の[個体の位置確認の発生]である。英語には、世界内個体の解釈図式とは、第三者の全知なる神様が見つめていることを暗示させうる仕組みが含まれているのである。要するに日本語の世界内個体の言語体系によって、個体間同士の力学的思考解釈が促進された日本文化であり、現在の「~力」の流行に認めることが出来るのである。

我々は単純に西欧科学主義を、宗教的知識を乗り越えてきた科学的知識と考えがちであるが、実際は、宗教的知識の斬新的改新を支えとしながら科学知識が発展してきたのである。加藤周一は、明治維新後の外発的開化を、日本土着世界観を基礎とした日本独自の西欧思想の摂取という解釈図式でとらえ始めたが、まさに「~力」の流行に、その日本土着世界観の歴史的変容の結果が現れたのである。我々は西欧科学が西欧の土着世界観を基礎として生じた出来事を見ずして、日本文化内の賞賛評価の力により現在に至っているのである。

【思考の社会学】、【隠されてきた言葉の影響】の問題意識は、ここに大きく現れている。日本人の独自の力学的思考によって、現在の社会状況が維持されているのであり、その力学的思考による言葉の発信に影響されてきたのが日本文化の最近の歴史なのである。我々はそんな日本的な力学的思考様式を知らずに擦り込まれているのだ。そして日本社会における様々な力の働き具合を描く「日本社会力学」のキーワードは、【秘境的なメカニック社会学の知識を抱いている小集団の面々】である。



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  1. 2010/06/14(月) 23:12:18|
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