思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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想い出のあとさき

井上陽水の「少年時代」90、それは、私にとっては「影法師のマーチ」、あるいは「影法師行進曲」と聴こえる曲なのである。イントロはビートルズの「LET IT BE」を彷彿させるが、日本では Mother Mary は囁かないのである。そのかわりなのか、「少年時代」では、間奏で行進曲的太鼓がなる。夢が消えた後に生じた想い出を抱きながら、そんな自分の目の前で、現代の少年たちが一生懸命に練習した行進曲の小太鼓を叩いている情景を、まるで過去の自分と重ねて眺めているかのようである。親になり子供を育てる段階になると、自身がどのように夢を抱くようになったかを、時には自分の子供が映っている風景を見ながら想い出したりするものである。

「誰のあこがれに さまよう」

それは"自身が抱く誰かについてのあこがれ""と言うよりは、"誰かが抱いているあこがれ"にたいしての自身のさまよいと、私には聞こえてくる。簡単に言えば、前者は【頼りになる他者のいない自己】に集中した心理学的立場で、後者は【他者の抱いている時代的な目的意識】をも視野に入れた社会学的立場であることを意味する。陽水は「氷の世界」73で「軽い嘘でもいいから 誰か指切りしようよ」と呼びかけ、「小指が僕にからんで 動きできなくなれば みんな笑ってくれるし 僕もそんなに悪い気はしないはずだよ」と歌っていることからしても、おそらく「少年時代」にも他者の目的意識の必要性を含んでいると思う。

また「風あざみ」という言葉は、陽水の造語とされているが、「あざみ」とは多数の放射状に伸びた花で、他者の抱くあこがれを探しさまよっている姿に思える。陽水にとって夢とは、決して個人的な想起なのではなく、「夢の中へ」73でも他者を誘っているように、他者と一緒になって生じるものである。89年、斉藤由貴によるリバイバルが発売されたが、その「夢の中へ行ってみたいと思いませんか」の誘いに、何か時代的な反応でも感じたのであろうか、翌年に「少年時代」だから不思議だ。

夢の終焉となった現在になってから、過去の想い出を持ち出すことによって、昔の他者の存在を頼りに抱き始めた自身の夢のはじまりを再確認する。そして現在の社会的状況に、自身が頼りとできそうな他者の抱くあこがれがないことを悟り、他者のあこがれを頼りにしていた頃の昔の情景である「夏模様」に「青空に残された私の心」が重ねられるのであろう。

人は想いを変え、夢を変え、捨てる。伊勢正三の「22才の別れ」75では、知らないところに嫁いでゆく女性から「あなたはあなたのままで 変わらずにいて下さい そのままで」と言われてしまった。岡村孝子の「あなたの夢をあきらめないで」87では、別れの後で「あなたらしく輝いてね」と言い残されてしまう。

男は女のあこがれを頼りとして来た。女の抱くあこがれの想い残しとは、男の抱く夢にはついて行けない自身の未熟と考え、ほかの適した女に男の支えを託し、かつそれを期待した別れを意味する。その取り残されたあこがれが、"青空に残された私の心"のようなものなのだろうか。しかしそれも風見真吾の「僕笑っちゃいます」83のような、自分勝手な他者理解だったと反省されて行く時代となり、価値観の多様化と女の自立なども合わさって、より夢とは独立自尊的な個人的な事柄となって行った時期に相当する。

時期的に見て、「少年時代」は長渕剛の「とんぼ」88と岡本真夜の「TOMORROW」95に挟まれている。両者に共通する「アスファルト」と「ビル街東京」とは、匿名社会における実用計画という目的意識の脅迫的包囲の象徴で、たいていの場合は、過去を「強者どもの夢のあと」として美を感じたり、あるいは現実を知らなかったと解釈して新たな時代へと順応して行く。そしてその新たな個人主義的な自己実現の理念は、その過去を「強者どもの夢のあと」とすることによって維持され始めた。

「八月は夢花火」

日本文化は花火に夢の儚さを見る。またそれを儚いと思いつつ夢を抱くのである。しかし一方で夢を抱くことを嘲笑する。陽水は夢が終わった後に、人々が様々な現実主義なり理想主義なりの時代的対応を見せる現在の状況を"星屑の空"と重ねながらも、夢の始まりを訪ねては、過去の様々な仲間がいた風景を再確認するかのようである。

日本の八月と言えば、1945年の広島長崎の原爆投下、終戦。1985年の日航機墜落事故にアニメ「タッチ」の和也の死がある。閑けさや岩にしみいる蝉の声。時代的潮流の蝉の声に、誰のあこがれにさまようのかさえわからない閑けさの対比。今どきの子供を見ながら、自身の少年時代を想い出すが、同時に、今どきの子供を見ている大人の自分から、自身の少年時代を見ていた大人を思う。映画「少年時代」の題材時期は戦時中のこと。「人生が二度あれば」を歌った陽水は、父母以外のあらゆる不意に亡くなった人々について何を思っていただろうか?いじめなど様々な社会問題を見つめながら、閑けさの見えない人々の忙しさと一緒に八月の夢花火を見ては、影法師の行進曲が流れ始めた。

そしてひとりで待つ八日目の蝉たちにも、「夏休み」71がやってきます。

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  1. 2010/06/13(日) 21:42:59|
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