思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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平成に舞い降りたかぐや姫

四国では「水がこぼれた」という意味で、「水が撒(ま)けた」と表現するらしい。標準語からすれば、一体どんな気持ちで、そのこぼれた水を眺めたらいいのか戸惑ってしまい、なかなか不思議な響きがする表現である。

そこで私なりに想像してみた。

一体、[水を撒く・水が撒けた]と[水をこぼす・水がこぼれた]のちがいは何だろうか。それは[撒く][こぼす]の他動詞の場合に見られるところの"主語の気持ち"がちがうのである。「こぼす」の場合は自身の目的意図とは異なった非常事態の落下といった"残念感"に満たされているが、「撒く」の方は、喩えること、収穫を目指した種蒔き(「種が播けた」の表現に無理があるし、訓読み漢字も異なるのだが……)や涼しさを目指した水撒きのような目的意図に沿った"ワクワク感"が潜んでいるように思えてしまうのだ。[~く・~けた]の対応にある「ご飯が炊けた」はその充実感に満ち満ちた最たるものだが、他方、「衣服が裂けた」の残念感の場合にしても「衣服が裂かれた」と言った受動態的な被害者意識にはなく、単なる状態の確認なのである。

例えばどうだろう。「水がこぼれた」と言えば、「誰が水をこぼしたんだ!」と、犯人探しやら、二度と同じ過ちを繰り返さぬようにと原因究明なんかが重視されている感じだ。しかし「水が撒けた」の場合には、「誰が水を撒いたんだ!」と大きな声で原因究明を呼びかけたところで、もし標準語の犯人であったのならば(ご当地四国の方々が、どう感じるのかは定かでない)、自らの不注意の言い訳を考えているのに、まるで何か積極的な目的を持っていたかのように思われてしまって、少々戸惑ってしまいそうだ。つまり「誰が撒いたんだ!」の大声は、こぼしたことの罪にではなく、撒いた目的が間違っていることの方を怒っているかのように感じられるのである。

その方言の由来とは、雨に"天からの水撒き"という恵みを見ていた大昔の名残で、「撒く」に人間の意図を限定させず、自然変化にも適応し続けた結果なのだろうか?また「こぼれ落ちる」の"落ちる"を問題としない、「撒き散る」の"散る"のような【周囲に広がる動き】の認識に留まった結果なのだろうか?いずれにせよ、標準語を比べて、何らかの見方が違っていることが感じられる方言である。

こうして見れば、四国の「水が撒けた」とは、過去の「こぼれ落ちた」に不具合を見つけて、それを改革することに最大の目標を置いていない文化であると言える。こぼれてしまった場合には、その注意不足の究明よりは「覆水盆に返らず」のもと、起きてしまったことにたいして対処するのであり、また「失敗は成功のもと」に則ってか、「撒けた」という失敗に、まるで何か得体の知れぬ「撒いた」目的意図を漠然と見ているかのようにさえ、思えてしまうのである。



さて、そんな方言を用いる四国の中でも、高知県土佐に注目して行きたいと思う。はじめに1959年の故郷土佐と上京をテーマとしたペギー葉山の「南国土佐を後にして」があげれるが、それに比べること、標準的なものとは、同年の守屋浩「僕は泣いちっち」である。それは後の70年代前半に見られるチューリップ「心の旅」73、マイペース「東京」74、太田裕美「木綿のハンカチーフ」75の男女の恋愛感情を合わせた故郷と上京へと繋がったテーマとなっている。日本の標準文化が故郷と上京に恋愛と自己実現が重ねられる傾向があったのにたいして、土佐文化は(標準的なものにもあるのだろうが)もっと個人内部の、過去から現在の経緯が重ねられた故郷と上京である点で、異なった傾向にあると思われる。

その70年代前半の標準的な恋愛と自己実現との相反のテーマの後には、幼少期を高知県で過ごしたとされる円広志が「夢想花」78をヒットさせている。壊れた過去の愛とは、こぼれた水に相当し、そのこぼれた水に何か未来へと実を結ぶ水撒きの意味を求めているかのような曲だ。"ノートにあったあなたのくれた野の花"は過去の故郷で、上京した今の私が"蝶"であろう。内容は上京によって生じた離反ではなく、あくまでも過去と現在の経緯の統合を目指したものとなっているが、「とんで」や「まわって」の連呼に故郷を離れた都会ぐらしが感じられたりするのである。そして「南国土佐を後にして」では、過去の故郷と現在の上京が"声の張り上げ"によって重ねられている。

そんな訳で土佐文化には、【個人の内部】に【過去と現在と共に、故郷と上京】が密接につなげらていると考えられるのである。「覆水盆に返らず」には"返らざるものへの未練"(昔についての懐かしみ)や"忘却による前向き"(苦い過去への決別や子供から大人への成長)を見るのではなく、"返らざるものに得体の知れぬ力を見る認識"を感じるのである。

そして70年代前半の日本標準文化としての東京への憧れも、やがて長渕剛の「とんぼ」88で終焉を迎えた。もはや東京は知らん顔して黙ったまま突っ立っているだけである。そして東京への憧れがテーマにされなくなったことは、[田舎・都会]の区分の減退と同時に、[一般社会・テレビメディア]の区分の減退を意味する。



平成となると、土佐娘の岡本真夜「TOMORROW」95がヒットするに至った。アスファルトや黙ったまま突っ立ってるビルも、何らかの神話的意味を含んだ覆水であるが如く、PVの岡本真夜の横顔のシルエットには、霧状の水しぶきが撒き吹き降りている感じだ。

簡単に言って、アスファルトやビルとは、"人間の計画中心主義による覆水"の象徴である。しかもその覆水たるものも、計画した人間自身さえ自覚していない、何者かによる水撒きの仕業と象徴されるのである。見るものすべては、何者かに撒かれた覆水の結果である。そんな撒かれた覆水の意味さえ気をとめない人々が下す好みや評価、そんなものにたいして、怯え、格好を付けてどうなるのか?

かぐや姫は、自身の人生計画に一生懸命な人々とは、別れを告げて月へと帰って行った。そんなかぐや姫が、「撒かれた覆水」を見る土佐娘を月から見つけたのか、この平成の世に舞い降り、岡本真夜に憑依したかのようである。

土佐文化は、見事に"過去の覆水返らずの得体の知れぬ意味の現在への引き継ぎ"を育てた。それは"過去の故郷"と"現在の上京"の対比から、""故郷"と"都会"の対比、強いては"一般社会"と"テレビ至上意識"の対比に及ぶ。「TOMMORROW」のPV、何故、横顔のシルエットか?それはテレビ画面の外の一般社会を見ていることを示す。あるいは、テレビとはシルエットを映しているだけであり、我々はその人々が見ていることについてよく知っていない状況なども示しているのかも知れない。かぐや姫は地球上では横顔のシルエットとしか見せなかった。いや、我々は代々先祖と共に、横顔とシルエットしか見ていなかったのだ。かぐや姫が一体何を見ているのかを知ることによって、そのシルエットから色彩を帯びた姿を現すのであろう。

しかし忘れてはならない。シルエットしか見えない人々の中では、そう長い間留まっていることができないのが、かぐや姫である。やがて、かぐや姫は「TOMORROW」だけを残して、再び月へ帰ったと伝えられるだろう。


田舎者が見る東京。標準語で「~していただくと、助かります」のところを「~していただくと、喜びます」と言う島根娘は、東京の訳のわからない恐縮を見て不思議に思ったことだろう。一方、「撒けた水」に得体の知れぬ撒いた力を見ると同時に、一般社会とテレビメディアの連続性を見る土佐娘は、東京の訳のわからない「水をこぼさないように」と心配する姿を不思議に思ったにちがいない。土佐出身の島崎和歌子。多数を相手とした島田紳助との司会ぶりは、ひょっとしたら、現実を得体の知れぬ力が働いた覆水と見れる土佐文化の技によるのかも知れない。



最後にテレビ至上意識にたいする一般社会からの主張。

その一つには、テレビメディアに道の上を対置させた一世風靡セピアなどがいたが、他方で、故郷と東京を同じ基盤で眺め、かつ一般社会とテレビメディアを同じ基盤で見ようとする土佐文化にも認められる。岡本真夜の「TOMORRW」に加わわること、よさこい祭りも土佐ものである。1992年、北海道札幌に飛び火してから全国に広がりを見せているらしい。

さあ、よさこい祭りは、かぐや姫がいる月明かりに照らされながら、テレビ至上意識に向けて踊れ!そして富士山気分の小集団たちは、不老不死を自ら拒んだことを思い出すがよい。その反省の度合いついては、上手に振り分けられた朝の占いコーナーの言論の自由とその笑顔で判定されるだろう。



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  1. 2010/06/10(木) 19:48:26|
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