思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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ドイツ地域的分布の研究 ~東プロイセンのカント~



神聖ローマ皇帝を選出権を有する七選挙侯(1356)の順位は、マインツ大司教、トリエル大司教、ケルン大司教、ベーメン王、ライン宮中伯、ザクセン大公、ブランデンブルク辺境伯だったそうです。最後のブランデンブルクについては『辺境』が付いていますが、それはフランク王国(イタリア・ドイツ・フランスの原型)を外敵侵入から守るために用意されていた周辺地域みたいなものだったと考えておいてよいでしょう。

そんな辺境ブランデンブルクは1618年に東プロイセンを併合してブランデンブルク・プロイセンとなりましたが、そんな飛び地の東プロイセンでカント(1724-1804)による『純粋理性批判』1781 が現れました。

一般的にカントはドイツ哲学の部類に含められていますが、かつてのドイツ騎士団によって拡張された飛び地である東プロイセンを拠点とし、またカント自身に目立ったドイツ本土での滞在活動もなかったようなので、1780年代後半にカントを広めたオーストリア出身のラインホルト(1757-1823)やその拠点となったワイマールやイェーナの地にドイツ本土におけるカントの始まりが位置づけられます。

このように東プロイセンという飛び地から新たなカントのコペルニクス的転回が投げ込まれたドイツでしたが、一方でスピノザの汎神論にまつわる議論も生じていたドイツ本土でした。

それはヤコービがメンデルスゾーンに向けて、レッシングが汎神論者であった点を問うたことに発した汎神論論争(1785)だったようです。またスピノザ、ヤコービ、メンデルスゾーンとユダヤ系であり、あるいはレッシングにしてもユダヤ人に関心を抱いていたようなので、当時の汎神論論争にはユダヤ系が深く関わっていたと言えます。

ローマ・カトリック教は新約聖書のイエスを特別視するためにアリウス派を異端(325)として三位一体説を正統として来ましたが、そもそもユダヤ教は新約聖書を軽視していましたから我々と変わらない人間だったイエスと見ていたようなものでしょう。


そこでドイツにおける出身地域の分布を簡単に記しておこうと思う。

(中東部)
レッシング(1729-1781)
メンデルスゾーン(1729-1786)
フィヒテ(1762-1814)

(中西部)
ヤコービ(1743-1819)
ゲーテ(1749-1832)
クリンガー(1752-1835)

(東プロイセン)
カント(1724-1804)
ヘルダー(1744-1803)

(南西部)
シラー(1759-1805)
ヘーゲル(1770-1831)
シェリング(1775-1854)






ドイツ哲学界では理論理性と実践理性で分けられていたカントにたいして、それを統合的にまとめようとした結果、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらが汎神論的傾向を示すようになったと言われています。はじめのフィヒテは中東部出身でしたが、シェリングやヘーゲルは中東部イェーナを拠点としていた時期もありながら南西部出身でありました。

おそらくヘーゲルの汎神論的傾向は1720年代生まれのレッシングやメンデルスゾーン、あるいは1740年代生まれのヤコービ、ゲーテ、ヘルダーが問題とした汎神論とは異なった切り口に変貌しています。汎神論論争の頃は中西部と中東部の議論でありましたが、シェリングやヘーゲルによって南西部出身と1770年代生まれの特質へ変わったのである。

やがてヘーゲル左派からは南西部出身のシュトラウス(1808-1874)、中東部ザクセン出身のバウアー(1809-1862)、南東部出身のフォイエルバッハ(1804-1872)とシュティルナー(1806-1856)らが新たにキリスト教の理念自体を人間論的に解説するようになりました。

そんなヘーゲル左派的な改革にたいしては刻々と経済格差を利用しながら搾取体制の建設が進められている状況を野放しにしているものとして、中西部出身のマルクス(1818-1883)とエンゲルス(1820-1895)が別の角度から現実解釈を示し始めるようになりました。


著名なる思想とは発案者と匿名なる受容者たちの共演結果であり、出身地域や活動拠点などが深く関係していたものである。また時代的変化を考えれば、世代の問題も当然ながら関係したと言えよう。

そんなことを思えば、ドイツ本土に活動拠点を置かなかったカントは、飛び地ケーニヒスブルクからイギリス思想やフランス思想を収集しながら、人それぞれ異なった多様性の中に理性使用という現実を注視していたことになろう。

ナポレオン一世は飛び地コルシカ島からフランスの多様性を見て、カントは飛び地ケーニヒスブルクから西ヨーロッパの多様性を見ていたのだ。

ただナポレオンの場合はフランスの中心部へ参入して行ったわけだが、それも『故郷は遠くにありて思うもの』とは異なるが、何か『故郷とは遠くから中心部の多様性を見るためのもの』というカントのような意識が持続していたことだろう。
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  1. 2014/06/06(金) 22:16:51|
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