思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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思想的自伝


ジョン・レノンが初めてのオイラのアイドル。「労働者階級の英雄」 に音楽と物の考え方に関係があるのを悟った。井上陽水の 「傘がない」 や 久保田早紀の 「異邦人」 が何を言っているか、不思議に思うことはなかった。

サージェント・ペッパーズのアルバムジャケットや 「GOD」 の歌詞に現れていた、ジョンが敬愛していたボブ・ディラン。はじめ貸しレコードで借りたものだが、何が何だかわからなかった。確か 「時代は変わる」 と 「血の轍」 の二枚だったと思う。やがてディランを聴き始めたのが、世間ばなれした考え方へ向かう始まりとなったのかも知れない。

オイラには数学と歌謡曲が流れていた。国語は全くダメ。退屈のあまり、よく後ろの変則表を見たりして、どうしてローマ字の si ではなく shi であるか、ti ではなく chi であるかと、色々と考えているのが好きだった。化学や物理が好きだったが、化学は覚えるのが大変なので、物理の方が楽しかった。

文学の始まりは、太宰治の 「人間失格」。友達にすすめられた一冊で、文学に物の考え方が関係しているのを明確に理解できた。太宰好きと太宰嫌いの議論もあるらしいことで、その後の心理学や社会学など人文関係へ進む素地に出会った感じであった。色々と太宰を読んだし、その影響で芥川も読んだ。「侏儒の言葉」 はショーペンハウアーやパスカルへ進めさせた。教科書から国語の才能がないと思っていたが、物の考え方にちがいがあることを自覚させた二人であった。

ジョン・レノンの関係から、神を信じていなかったし、神を語る者への不信感の方が強かった。しかし、それは一変した。デカルトの 「我思うゆえに、我あり」 を突きとめると、神を前提しなければならなくなったのだ。詳しい話はしないが、オイラには必然であった。デカルト的な証明ではなく、スピノザの汎神論へつながる理屈であった。ディランの映画 「ドント・ルック・バック」 で大文字 KNOW を神の全知と説明しようとしている場面で、もはや逆もどりできないオイラを感じた。ディランがランボーを持ち出して言った 「我は他者なり」 にも同意できた。

初期のにディランから影響を受けた文句を記しておこう。



死が世界を止めたことはない。

人の言うことやすることには理由がある。

善悪はない。場面に捕まった発明品。



哲学的にはスピノザとフッサールが、このへんてこなオイラの考え方に至る始まりだ。デュルケームやフロイトなどの理論にはあきれるばかりで、スピノザやフッサールの側にオイラの原型がある。アインシュタインの相対論が出来た過程からはカントやマッハなどの認識論を確かめたし、マンハイムの知識社会学を合わせて、すべての知識や世界観を持った人間論の位置を発見した。

別に小難しく頭の中だけで考えていた訳ではない。確かに70年代の歌謡曲を基礎に時代の変化を確かめながらリアルタイムを見てきていた結果だ。しかしあまりにも色々んな人々がいて、あまりにも個人的な考えなので、ただ記憶するのに忙しいまま、もはや説明する気もなくなっていくのである。

人々の説明している姿が記憶されてゆく。私は絵を描いていた方が幸せなのかも知れない。どうか、人に一歩譲っては人に五十歩百譲らせ、そして無事に自分の一歩譲りにポジティブになれる、そんな御相手が等しく皆さんに見つかりますように。



どうやら五十歩譲らせの知的財産、今日も誰かさんが見つけたようです。もし黒い大和猫ならば、ここは子猫をくわえては、気をつけながらも一歩前だ。


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  1. 2011/06/30(木) 23:52:31|
  2. 現代思想
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