思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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歴史意識と時代変化

歴史学で有名なドイツのランケであるが、イタリアのヴィーコの歴史解釈と比べるとどうであろうか。

まず両者に共通するのは、合理主義や啓蒙主義、特にフランス思想にたいする反動の特質を含んでいる。ヴィーコはデカルトの合理主義に対抗した理念を示し、ランケはフランス革命後のナポレオン帝政とドイツ精神の隔たりから歴史学の理念を示していた。つまり、現在の普及浸透しようとしている新しい理念を目の前にした時に、【今までの長い歴史上では見あたらなかった現在の異様感】と、その【現在の異様感がなかった長い歴史】のちがいについての関心が、歴史意識の発生に寄与するのである。

よく注意して貰いたいが、【古い歴史】と【新しい現在】の比較ではありません。【新しい現在の異様感かなかった長い歴史】と【新しい異様感がある現在】の比較である。

新しいデカルトの合理主義的態度に異様感を見たのがヴィーコであるが、同時にその近代的合理主義という異様感は長い歴史上になかったものと意識されるのである。その結果、現在までの歴史過程を調べることになる訳だが、その方法とは性質論的な歴史解釈ではなく、知識論的あるいは理念論的な歴史解釈の様相を帯びることになっている。それは同時に、現前の近代的合理主義の異様感について、それを理念論的に見ることによって、現在に至った歴史経過についても同様に理念論的に解釈するといった仕組みにあるのだ。だから単純な【古い歴史】と【新しい現在】の比較のみでは、到底ヴィーコのような歴史解釈には至らないのである。

ランケの場合はと言えば、フランス革命後のナポレオン帝政に異様を感じた故に、自文化のドイツ精神との違いから歴史学が発生した。ただフランスとドイツという武力の闘争ではなく、フランス精神とドイツ精神の対立のように現在の様々の精神状況を歴史過程から解釈しようとした試みである。また奇妙なことだが、ランケが題材に選んだルターについても、新たに生じた免罪符販売に異様感を感じたルターであって、そのルターが聖書主義に基づき、ギリシャ正教会とラテンカトリック教会との歴史的教義の変化過程を辿っているのである。ランケはルターと類似した歴史的関心を抱いており、新しい歴史学を構築する際に、そのルターの歴史的関心に触れることになっているのである。



このようにヴィーコやランケの歴史への関心とは、異様に感じる他者と自分自身の相違に注目し、それを歴史的過程によって見いだそうとする動機により増大したのである。今日の教科書的な世界史分野ではランケの歴史学方法の方が重宝されている訳だが、それはそれぞれの【精神】の織りなしてきた歴史経過とする解釈図式にあったからであろう。一方のヴィーコの場合は【理念】に焦点が絞られていたため、さほど重宝されることなく来た歴史学的方法にある。

実際のところヴィーコの方法とは、様々な理念を抱く民族間の相互作用を世界史全般に拡張して行くのには無理があった。むしろ人間の合理的思考を頼りに物事を解釈し始めたデカルト的な方法に対抗するために、理念の歴史的展開を説くことの方に傾けられていたからである。生まれた年も100年以上離れていたこともあるだろう。しかしヴィーコの方法はランケにはない独特の歴史学の方法がある。

たとえば日本と西欧の歴史的相違を考えてみよう。明治維新以後の西欧と比較した日本人論の特徴を見れば、それはヴィーコよりもランケ的な歴史学の方法を取っているのてある。ドイツで「ドイツ精神」と説かれていたように、日本で「日本精神」を訴えるような日本人論となっているのだ。

しかしヴィーコは【理念】を強調する。ヴィーコが何故あれだけ「新しい学」で様々な語源にこだわったのかと言えば、例えば"ラテン精神"よりもラテン語の語源から"ラテン理念"の方に注目しているのである。言い換えれば"ドイツ理念"や"日本理念"の方に基礎を置こうとする歴史学の構築にあるのだ。

たいていの今日の日本人論を見れば、それは【理念】よりも【精神】の方にに重きを置いている。「甘えの構造」の著者土居健郎は「甘え」が日本語に特有な言葉だと指摘したが、その特有な言葉を用いていることに、ヴィーコ的な観点に立って"日本文化の理念"を見ようとはしていないし、むしろ西欧人の精神構造をも説明しうる素晴らしい心理学用語であるかのように宣伝しまっている。また懸命な日本人論を構築しようと試みようとしても、せいぜい西欧人と日本人の比較から、デカルト的な合理的思考を用いて"日本精神"などを帰結するに留まるのが、現在の大半の日本人論なのである。

しかしヴィーコの場合は、語源論からギリシャ理念やラテン理念などを踏まえて、ギリシャ精神なりラテン精神を見ていたのである。ならば新しい日本人論は、ヴィーコの方法に習って、日本語のしくみに日本理念を見いだし、それから日本精神を説明することになろう。しかし時代はめまぐるしく変わるが故、私は歌謡史なり伝統、時代変化などと、その日本理念の様々な歴史変化に注意して来た訳である。当然、西欧諸国のイギリス理念とかフランス理念などにも注意を施して行かねばならず、「自由」の社会学なども試みて置いた。また加藤周一の「土着世界観」もヴィーコの語源論と重ねて行くのが望ましい。



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  1. 2010/06/30(水) 23:42:04|
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