思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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非ユークリッド幾何学と旧約聖書


はじめに神は天と地をつくった。

『創世記』1-1



神のみわざを考えみよ。神が曲げられたものを、誰が真っ直ぐにすることができるか。

『伝道の書』6-13





一方の日本は『祇園精舎の鐘の声』だ。

いやそれどころか、『祇園精舎の鐘の音』に進化した。


もちろん『雰囲気』も『空気』に進化させた国である。

誰だったか、『何だか大きな音がするね』って呟いてたね。





『声』と『音』の華麗なる選別で、自分の人生を逃げ切れ!

先手の『音』命名作戦も、いずれは自らの声が『音』と見なされるようになるから、自分の人生だけは逃げ切れる程度に、それぞれ聞きたくないものを聞かないよう頑張れ。

The sound of silence



【定規注意報】

みんなが曲がっているのに、ただ気に入らないものだけに向かって『あいつ、曲がっている』とつぶやいている。

だから自家製のなんちゃって定規たちに、御用心。

Absolutely Ssweet Marie



(福助、ディランを聴きながら、アインシュタインを読む)


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  1. 2012/07/13(金) 20:01:32|
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日本における旧約聖書 ~ヨセフを忘れたエジプト~

現代日本でも、少しは旧約聖書の内容について知られている。

特にアダムとイヴ、ノアの方舟などは有名なもので。もう少し詳しい方々ですと、カインとアベル、、エデンの東、バベルの塔なんかも知っていると言った感じです。

しかも上記の五ついずれもが、最初の 「創世記」 の前半部分に限られているのであって、まさにそこに現代日本における旧約聖書についてのイメージが象徴されている感じでもあります。



さて旧約聖書とは簡単に言って、ユダヤ教の聖典です。それに新約聖書を含めたのがキリスト教であり、ユダヤ教の場合は新約聖書を含めていないと言った感じです。

ですから日本における旧約聖書のイメージ形成は、明治維新後の西欧文化と合わさったキリスト教の流入によって幾らか勢いがついたと言ってよいでしょう。



そこで日本文化から見た旧約聖書の第一印象を考えてみますと、それは 「主」 と連呼される唯一神の強調です。

遡ること日本にキリスト教が入って来た頃について考えてみますと、聖書を参考にした一部の人々が、その 「神」 について語り始めたのも想像に難しくありません。

しかし世の中に格差があったり指導者のやり方に不満が生じるのは世の常ですから、そんな状況下にキリスト教が入って来ますと、キリスト教を基軸とした部分的な団結勢力が生じたりする可能性も生じるものです。古くは天草四郎が、その日本における代表例です。

西洋人が日本漂流してからと言うもの、異文化にたいそう驚いた日本人であって、特に上流階級の中で優遇と交流がなされたことでしょう。それが中流もしくは下流階級へキリスト教が広まり上流階級にたいする改革理念として共有されるようにもなったのです。そうなると今度は、現行の上流階級側が抑え込みを計り、禁教や鎖国にいたった訳です。

では明治維新からのキリスト教は、どうだったのでしょうか?

まず1873年に外国からの圧力もあって禁教政策が廃止されようです。そして天草四郎のような国内の政治勢力の分断を危惧していたのかは知りませんが、内村鑑三の無教会主義が現れています。そのため一神教の 「神」 を強調することのない聖書解釈が知識階級でも幾分進められた感じです。

そして現在の日本では、特別にキリスト教の存在自体に拒絶反応を示すことはありません。キリスト教会側も日本文化における 「神」 の感じ方もわかっていますし、世界的な宗教的立場に則っているからです。むしろ新興宗教のような勧誘の方が警戒されるのであって、日常生活において出しゃばった内容説明がなければ、キリスト教信者でも避けられることはない日本です。



さて話を旧約聖書に戻しましょう。

つまり 「神」 の強い主張がなければ、それなりの許容がなされるキリスト教であり、そして旧約聖書です。ですからアダムとイブ、カインとアベル、エデンの東、ノアの方舟、バベルの塔などが広まったのも、映画や文化などで浸透したために、「神」 を軽く考えながら気楽に話題にできるようになった事柄に相当する訳です。

日本において抵抗感なく広まった事柄が、何故 「創世記」 の前半 (11章まで) に集中しているのか?

それはヤベテの子孫、ハムの子孫、セムの子孫と長々とその系統が説明され、いきなりセム系統のアブラムの時代へ話が飛んで物語性が中断されているからでしょう。また旧約聖書では現在の多様なる文化集団に【先祖代々の系統を見る世界観】があるため、早くも【セムとハムの分類意識】を指し示した 「創世記」 10章であり、わかりやすい局所的物語性が薄くなっているからと言えます。



さて問題を今日の世界情勢につなげよう。

遡ること日本では、1982年に 「シンデレラ・コンプレックス」 という本がベストセラーになったと言います。それはアメリカのコレット・ダウリングが提唱したものを翻訳したもので、キリスト教文化圏で読まれたものです。そして一種の 「待っていても幸せはこない。幸せは自分で掴むもの。」 みたいな雰囲気を作り出すことになりました。

ここでは幸せを待つか掴むかの是非は問題ではありません。シンデレラ物語の【不遇からの成功】について、旧約聖書と並行的に吟味されたかどうかにあります。

と言うのは、すでに旧約聖書では 「創世記」 でシンデレラと等しい【不遇からの成功】という物語性を含んでいたからである。

それはヤコブの子ヨセフのことで、「創世記」 37章から最終50章までである。ヨセフは自らの夢を語った (37章6節) ことにより兄弟から憎まれ、エジプトへ売られた。そしてヨセフはエジプトで成功した (41章41節) のだ。

なるほど 「シンデレラ・コンプレックス」 による人物解説は、幸せ待ちの人々が世界を見ようとしていない状況を認識したかも知れない。しかしその人物解説は、成功後もしくは幸せ後の社会観について示さなかったのだ。旧約聖書の場合は、ヨセフが亡くなり、彼が忘れ去られた後々の世代まで物語が続いていくのである。

そうなのだ。「シンデレラ・コンプレックス」 という解説用語とは、ただ個人個人を評価することで、自らの人物評論家の地位を確保しただけであって、その後の全体的な社会の動きを見ようとしなかったのである。いや、その自らの人物評論家の地位を維持させるために、社会の動きを見させないように、人物評価によって個人個人が争うよう心理学理論を提供し勉強させようとしたのである。

全く敬虔なるキリスト教徒たちも、聖なる精神の獲得に一生懸命で自らの精進に忙しかったのだろうか?言いやすいお得意さん信者ばかりに小じんまりとした説教をして仕事になっていたから、間抜けな心理学理論が新たに浸透する状況を監視できず、現在のような世界情勢になってしまったのである。

キリスト教徒たちは、すぐにヨセフの成功物語も持ち出して、成功哲学には成功した後の全体的社会動向が示されていないばかりか、それを隠しながら人々を争わせ、そして自己君臨を維持するための【ヨセフを忘れたエジプト】である点を訴えるべきだったのである。

すなわちヨセフを忘れたエジプトとは、「出エジプト記」 1章8-16節 のことである。

ただ旧約聖書では、ヨセフを忘れただけのエジプトでしたが、しかし現代のヨセフを利用するエジプトである。

つまりヨセフになれないシンデレラの欠点を解説し、その解説によってエジプト政権を維持させるのである。ヘブライ人の台頭を恐れるため男の子ならば殺すよう計画されていた旧約聖書の叙述のように、現代のシンデレラ解説のような人物評価発信地も、その発信地利権を見抜く勢力を早めに打ち砕いておくよう、成功の必須条件を振りまいているのである。

たとえ解釈の偏狭さを認めたとしても、旧約聖書が対象としていた社会的広がりと比べれば、シンデレラ解説の個人品定め性のその広がりのなさは、あきれるほど一目瞭然。それどころか、その解説が起こしている社会的影響の広がりが見えてしまう旧約聖書の立場なのだ。

日本で知られている旧約聖書は、ほんの 「創世記」 の前半部分のみで、ヨセフ成功物語の周辺に広がっている領域にさえいたっていないのだ。

いや現代のキリスト教文化圏も、間抜けな心理学の狭き関心領域にたいして監視が出来なかったので、もはや日本の状況とさほど変わりがないかも知れない。

アメリカの映画監督も、そんな現代の広がりなき関心の世界情勢を風刺する意味で、【ヨセフを忘れたエジプト】というタイトルの映画でも早期に制作するのが筋だろう。

【エデンの東】が1955年だから、今日まで一体何をしてきた映画界なのか、私にはよくわからない。まあ、ウォール街から始まった世界的デモの発生について深く観察している旧約聖書であることは、よくわかるのだが……



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  1. 2011/10/22(土) 18:08:49|
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「エレミヤ書」 ~旧約聖書の国家観~




南ユダ王国はバビロンによって滅亡しました(「列王紀下」 25章7節 「歴代志下」 36章11-20節)。しかしその滅亡の理由について、旧約聖書ではどのように解釈されていたのでしょうか?今日にいたるユダヤ・パレスチナ問題を考えようとする際、ユダヤ側の国家観を理解するための一つの指針となりうる部分に相当するでしょう。


まずヨシア王の治世に最大限の賞賛 (「列王紀下」 23章25節 「歴代志下」 35章18節) が記されていることからして、その後のエホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤへと衰退していった南ユダ王国と考えられています。

その衰退は最大限に達したヨシア王がいきなりエジプトとの戦いで倒れてしまうことに始まり、国の民によって次期エホアハズ王が立てられる (「列王紀下」 23章30節 「歴代志下」 36章1節) も、戦勝エジプト王によりエホヤキム王が立てられ (「列王紀下」 23章34節 「歴代志下」 36章4節)、貢国の立場となりました。

しかし何故、最大限の賞賛を記したヨシア王が、いきなりエジプトに倒されてしまったのか? 「列王紀下」 (23章26節、24章3節) によれば、それはマナセ (ヨシアの二代前) にたいする神の怒りと解釈されています。

では何故、マナセの罪をヨシアが受けなければならなかったのか?おそらくそれは、マナセの父ヒゼキヤの個人主義というか自世代主義的な理念 (「列王紀下」 20章19節) にたいする国家的戒めを意味するかのようです。ヨシア死後にあたるエホアハズ王にしても自世代主義的理念の残余 (「エレミヤ書」 22章14節) が認められ、そこに南ユダ王国滅亡の運命を重ねていたと言えます。

そんなエホアハズを王として立てたのは南ユダ王国の民でしたから、もはや国民の王政監視も充分に働いていない主従分裂した状態と言えますし、次のエジプト王に立てられたエホヤキム王にしても、エジプトに守って貰う貢のための増税をくだすしかない状態だったのでしょう。

そのエジプト王によって立てられたエホヤキム王の時期には、別のバビロンが侵攻してきて、エジプトは退きました。やがてエホヤキムがバビロンに抗争するも立ちゆかず、次期エホヤキン王へと移っています。

そしてエホヤキンの時にバビロンが攻め囲み、降伏した彼ら一族はバビロンへ連れて行かれ、当の南ユダ王国では最後の王となるゼデキヤがバビロン王によって立てられています。(「列王紀下」 24章17節)



このように旧約聖書では、ヨシア治世で頂点に達した南ユダ王国も、王を始めとして自世代安楽が優先されせたため、神の制裁がくだったと、そのように解釈されている感じであります。

その神の制裁については、バビロン王国を通したものと積極的に解釈されている旧約聖書でして、特に 「エレミヤ書」 では顕著に表わされています。(中でも27章8節)

ですからバビロン捕因とは、ユダヤ教にとっては神による制裁もしくは試練なのです。一般的にユダヤ教の特質として選民思想が宣伝されていますが、バビロンを神による裁き手と見ている訳ですから、必ずしも正しくありません。むしろ現代社会にも認められる自文化中心的な特質であって、ユダヤ教の 「神」 の連呼に選民性を見た結果に過ぎません。

まあ、イスラエルの神を普遍化しようとする雰囲気にあっただけのユダヤ教であって、今日のグローバル化理念とたいして変わったことではありません。もしそれを選民思想と言うならば、先頭に立ってグローバル化を説いている方々にも、表立っては言わないのでわかりずらいのですが、 「選ばれた私たちにグローバル化の権限がある」 という選民思想が隠れているのです。

話がズレてしまいましたが、旧約聖書ではバビロン王国に味方した神とされ、また同時にバビロン王国にたいするユダヤ側のいくつかの反応についてが分類解釈されているのです。

「エレミヤ書」 の最終部52章31-34節および 「列王紀下」 の最終部25章27-30節では、エホヤキンのバビロンにおける優遇が記されているのも、それはエホヤキンがバビロンに降伏した (「列王紀下」 24章12節) からだと思われます。

一方、エホヤキムとゼデキヤはバビロンに背いた (列下 24章1節、20節) と記され、特に最後のゼデキヤ王の場合はバビロンに背いたゆえの滅亡を強調している感じです。(「列下」 25章7節、「エレミヤ」 39章6-7節、52章10-11節)



旧約聖書の国家観とは、簡単に言ってしまえば、「神に従えなければ、国家を保つな」 である。つまり国民や民族を守るのが国家ではなく、神の目標を実現するのが国家なのだ。もともとのユダヤ王国の樹立も、外敵から自民族を守ると言うよりは、内治裁き手のため(「サムエル記上」 8章5節)であった。
明らかに旧約聖書とマキャベリズムの国家観とは、異なっている。マキャベリズムは国家を守るための外敵にたいする策略と同時に、内治のための策略を説くが、旧約聖書は両者の共時性的発生を見て国家の滅亡に神を解釈しているのです。

ユダヤ教徒とは、そうした国家観を共有して様々の他国家の中で放浪していたと言ってよい。その国家の中でのしがらみに縛られないユダヤ人的な商業や高利貸しの繁栄が、ナチス・ドイツによるホロコーストの対象となったのだ。

詳しい専門知識はわかりませんが、1948年のシオニズム運動の延長で建てられたイスラエル国とは、過去のユダヤ人迫害勢力に 「出エジプト記」 を重ね、「サムエル記」 に建国を思っていたようなものでしょう。

しかしユダヤ人もしくはユダヤ教徒は、みながみなシオニズムの考え方にはありません。逆にナトレイ・カルタという、ホロコーストをシオニストの罪に向けられた神の制裁と考える人たちもいるらしく、バビロン捕因以来から神によって国家樹立を拒み続けてられているユダヤ人なのだと解釈されているようです。

確かに旧約聖書に潜む国家観にたいして、時代を経るに従い変容さたり多様に解釈されて現在にいたっている訳ですから、仕方がないと言えば仕方がないことでしょう。



しかし別に旧約聖書やユダヤ教に限ったことではありません。

現代のあらゆる人々も、同様に周囲の知識への支持や反対によって個人的知識を形成しながら各人がコミュニティー参加をし、かつどこかのコミュニティーに参加をするためにいずれかの知識を選択しているのであります。

ただ旧約聖書やユダヤ教についての現状を、自身が属する文化圏内で解釈し、その解説専門家に居座るのでなく、自身が居座っている文化圏にも同様の仕組みが働いていることにも気付かなければならないのです。

別に旧約聖書に真実が書かれている訳ではなく、むしろ人それぞれの知識形成や人それぞれのコミュニティー従属化を知らせるために、神が一部の人々によって旧約聖書を書かせたと言った方が、より真実なのです。


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  1. 2011/10/20(木) 23:49:27|
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アベル・シンプレックス ~カイン・コンプレックスの正体~

カインはアベルを殺害した。一説によれば、褒められているアベルに比べ、省みられなかったカインがコンプレックスのために何やら起こってしまった行動らしい。しかし旧約聖書の意味することとは、そんな狭い人物解剖分析なんかにはないようだ。

アベルは神へ羊を生贄に捧げた。しかし羊のことを考えず、自身が受けた神の祝福にご満悦であったアベルだったのである。神は祝福はよくないと考え、カインへアベルを生贄にするようにしたのである。そう、はじめはアベルへ羊を生贄にするように施したように。ただアベルは祝福されたが、カインの場合は祝福されず、エデンの東に追われた。

なるほど、もともと祝福はよくないと考えた神の計画だから、カインが祝福されないのは当然であった。そしてカインを殺害する者がその七倍の復讐を受けるようにしたのは、そうした祝福されたアベルの盲目にたいする裁き手をカインとするためである。

神はアベル・シンプレックスの正義感を叩くために、七倍の復讐を用意した。アベルのシンプレックスについては全く考えず、ただカインのみを罰しようとすることとは、「何も悪いことをしてなかったのに」 と言い訳しながら復讐心に燃えるアベル・シンプレックスの仲間たちなのである。あるいはまた悪の成敗舞台に自己箔付けのコツを得た人々もいるが、彼らも同類であることも忘れてはならない。

ちょっと難しかったかも知れないね?少なくともカインは褒めている神にたいして顔を伏せながら、褒められているアベルだけに関心が向いちゃったんだよね。実際この世の中には、褒め上手で自らの安楽椅子を獲得している方々がいるんだよね、く・く・く。中には気に入らない奴がヤキモキするように自分より低い奴、もしくは従属しやすい奴をわざわざ褒めあげるような技もあったりしてね。

たいてい妬まれる者とは褒めらる側だから、安楽椅子の側からすれば、これがまた堪らない快感なんだ。もしあなたが褒められたのならば、妬まれる人々の存在に注意するだろう?評価発信元とは、あなたの祝福ではなく、その社会構造を見ながら自身の安楽椅子で笑っているんだよね。全くカインに狙われるようにアベルを誉め讃える神様気分さ。また幾人ものアベルの中から活躍を持続させた一部の生き残りだけを見て恩を被せれば、自身の評価発信元の箔付け持続に役立つのだから、最高の気分だろうね。一体何が【カイン・コンプレックス】なのだろうかね?「カイン・コンプレックス」 の解釈が浸透している社会の状況こそが、この世の中のそれぞれ各人の勿体ぶりと余裕計画を洞察するための心臓部さ、ここだけの話だがね。

そもそもコンプレックスって複合体みたいな意味なんだけど、心理学用語で語られると、何か個人の中で、もやもや、って感じなんだよね。複雑な社会状況を解明するまでに絡まっちゃう感じが全然ないんだ。つまり社会状況を自分にとって絡まないように余裕ぶれるのが正常と言うことで、どちらがよく社会を知っているかは問題とされないから、へ・へ・へ、驚きだ。だんご三兄弟の長男はそんな無礼上手の三男を抜擢しては次男の利益を搾取している。次男としては地道に今後来る四男を教育することだな。三男たちも三男同士ですでに争っているので、今までの恨み辛みの復讐としての暴露、とぼけた長男と三男へ向けて準備しておこう!彼らは復讐的暴露を卑怯な者がやる負け犬根性の行為と思い込ませようとしているから、彼らの派閥分裂を見逃さないことだ。


いやはや、それにしても現在の心理学解説状況を見れば、カインについてばかり語って活躍中のお馬鹿さんばかりだ。そんなお馬鹿さんばかり重宝される世の中なので、おいらにカイン・コンプレックスをお探しになるアベル・シンプレックスのお馬鹿さんたちでもあろう。アスペルガー症候群の解明もカイン・コンプレックスの分析ばかりじゃなくて、研究している側のアベル・シンプレックスの分析もする必要があると思うね。よくわからないけど。



へ・へ・へ、あなたの目指していた個性とは、人々のうっかり加減を狙いすましたちゃっかりアベル集団で弾ませる余裕ぷり笑顔の輝きだったね?どうだい?明日も続けられて行けそうかい?あなたの集団も次第にばらけて、次世代の若き者たちが、あなたのちゃかり加減をうっかり領域の側へ移すだろう。時間がかかりそうだが、私はカインの育成に味方をすることだろう。アベルたちは見て見ぬ振りをして通り過ぎたからである。いやいや、むしろ私は見て見ぬ振りをした者をアベルと名付ける。アベルにカイン解説を聞かせている者とは、カインの大量生産に貢献しながら、しかもその貢献の報酬をカインの解説で得ているような者なのである。

どうやらあなたには、謝り方やかわし方のマニュアル、他の人脈への乗り換えなどが準備されているようだけど、どこまでちゃっかり考えてみても、知るものからすればアベル・シンプレックスのうっかり加減が減ることはない。それを見抜いたカイン・コンプレックスのハンマー、そいつがいつ振り落とされるかは神のみぞ知る。まあ~、自分が生きている間は自分に振り落とされないように、お仲間集団と華麗なる仕事ぷりを進めるのよいだろう。「自分だけではない」 と自らに言い聞かせながら、先頭に立たない方がいいかもな。やっぱり二、三番手がおいしいらしい。



しばらくは大して変わりそうもない世の中さ。変わり始めたのを確認してから、人並みに合わせて進むのがよいだろう。見れば今日も、シンプレックス(単細胞)を利用しながらコンプレックス(複合体)を叩いて自分の出番を確保し、お仲間の祝福を受けている。悪女やら悪人とやらについての台本を書いている方々も、どこまでアベルとカインの関係がわかっているのかな?いずれにしても、人は一人では生きていけないということで、アベル・シンプレックス同士の支え合いが繁栄している現代であります。

さあ、そこのカインたちよ。アベル殺害に挑むのか、アベル・シンプレックスたちを利用する側に割り込むのか、それとも顔を伏せるのやめて評価発信元を批判するかを考え始めなさい。現代の子供たちはあまりにも早く決断を迫られる時代で、親子ともども生き残り態度の選択が大変だが、評価発信元がどこにあるかを自覚しながら選びなさい。近所が世界ではない。今日のアベルが明日のカインとなることもある。もし人の言うことを聞くこともせず、笑い飛ばし続けているのなれば、人寄せに利用している人々の背中にいる招き猫も、いつかは招くつもりで上手に隠していた爪を、彼らの目の前に振り落とすであろう。まるでカインがアベルにしたように。



しかし何だろうなぁ~?もしかしたら、おいらは 「猫に小判」 とささやいているアベルを叩くために、猫の手を借りるカインだったのだろうか?いずれにせよ、まだまだとぼけた発信元の安楽椅子に気付かない者達が互いに嘲笑解説で自身の優位性確保を夢見て争っているのだから、おいらの意見は必要とされない個人的趣味かな。せいぜい必要とされると言っても、ちゃっかり知識人に新たな構想のヒントにされながら、少しずつ知識搾取されていくくらいだろう。今や 「プレゼン力」 という言葉が蔓延しているから半ばそれも決定的で、1963年11月4日がわかる奴もいないようだ。

どうやら、匿名大多数に向けた小出し勢力か居座り専門家人脈のどちらかを選択するべきだったと思う。何よりも努力の成果と示せる安楽椅子を獲得することが大事か、さもなくば人々の従属自尊心を味方につけれる創意工夫が必要であって、どう見ても努力お馬鹿の従属自尊心が社会意識に気付く可能性もほとんど皆無である。心理学革命とは、別に心理学分野に限った変化じゃなくて、すごく広い社会現象に影響するものなんだけど、それが認知されるには無理な時代である。時代変化を弁えようと収集した情報処理も必ずしも役立つは限らない。しかしこれからも阿呆な suggestion 計画についての情報収集を続けてしまう、そんなオイラかもな。まあ~、猫の手を借りたいほど忙しい世の中ではなさそうと言うことで、ひとまず吾輩は日常の平穏無事の中で再び一眠りすることにしたい。

多分、これからまだまだ、それぞれの余裕態度計画の発言が進み、世の中も騒がしくなってくるだろうなワラ。お馬鹿な専門家発言に答えがないと気付き始めたら、高額で教えてあげてもいいかもね?一体この世の中、何が起きているのかを。(何か言った?よく聞こえねぇ~けど) それまでテレビ界は含み笑い闘争、行けるところまで頑張れ!何はともあれ、今年も桜が咲く春がやって来るようだ。



久方の 光のどけき 春の日に

体丸める 猫の昼寝

The people in the cheap seats clap your hands. And the rest of you, if you'll just rattle jewelry.



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  1. 2011/02/18(金) 21:04:15|
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Happy Xmas ~遠くを見なければ近くはわからない 近くを見なければ遠くも見えない~

もう今年もクリスマスかぁ~。 まあ~、おいらにとっては、周囲のクリスマス雰囲気は、小さい時から何か馴染まないんだよな。そんな訳で、せいぜい違和感を感じ合う者同士の奇妙な思い出が残されていくちゅう~もんさ。やっぱりおいらの場合は、JOHN LENNON の Happy Christmas あたりが、生きてきた中では一番馴染む曲だな。全体社会とそれぞれの近隣生活の関わり合いに寛大さが試される、そんな行事って言ったところなんだろう。



しかし話は代わるが、本物のサンタさんも、なかなかやる憎い奴だな。だって、そうだろう? 仮に本物がいると人々に悟られてしまったなら、マスコミ連中も秘密を暴こうと大変な事態になるもんだから、ちゃんと人々にサンタの扮装をさせておいて、抜かりなく自分の活動をこなしているんだからね。



ホンマ、ここだけの話なんだが、子供騙しと思い込ませておいて、本物のサンタさんは活動する。

いいかい、よい子のみんな? ここしばらくだけでも、日頃の悪巧みは一切やめて、いい子にして待っているんだぜ!

しかしあらかじめ強く注意しておくが、もし自分のところにプレゼントが届かなかった場合、決して恨んだり、しょぼくれたりする場面ではなさそうだぞ。それは、今年のサンタさんがどの子にプレゼントを届けたのかをそっと思う、そんなサンタさん自身も色々考えた末に作り上げた時間だ!

さてみんなは、今年のクリスマス、一体誰と暗闇の炎を囲むのかな? それが終わったら、その囲いを頼りに、外の暗闇の炎へと歩き出すことを期待したいな。

Happy Christmas



神様からの伝言

おばあちゃんは、おばあちゃんが見たなりの遠くを、近くの孫娘に少し残しておくのが、一つの仕事なのであります。いつの日か、あなたの母親があなたの娘に同じ仕事をしている場面を、あなたは見るかも知れません。あるいは歳をとり孫娘が生まれ、同じことをしている自分に、ふと気付く時が訪れるのかも知れません。おそらくそれは、神様が人々の死と誕生の中に、そっと暗号を散りばめておいたからだと思います。



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  1. 2010/12/22(水) 00:07:21|
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