思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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すっぱい葡萄と狸さん ~新イソップ物語~



あるお腹を空かした狐さんが葡萄棚から葡萄の房の下がっているの見つけて、それを手に入れようと頑張っていました。そしてしばらくすると狐さんは『あれはまだ熟れていない』と言って立ち去りました。

それを木陰に隠れて見ていた狸さんは、狐さんが見えなくなったの見計らってから、その葡萄を一粒だけ取って食べてみました。するとすっぱくてすっぱくて吐き出してしまいました。

『あれ?さっき狐さんが向こうの葡萄を取り損ねた時は、何も言わなかったぞ?』と、ふと狸さんは思い浮かべました。そこで『もしかして、あの狐さんの葡萄を見る鑑識眼は確かなものかも知れないぞ』と思い立って先の葡萄棚へ収穫に行きました。

すると案の定、今まで食べたことのない美味しい葡萄でしたので、思いっきり仲間の狸さんたちを総動員して収穫にあたりました。しかも自分たちだけでは食べきれないほどの収穫でしたので市場にも持って行き、全くその良質ゆえに思いのほか高値で売れ、おかげで前から欲しかったテレビを携えて帰ってきた狸さんたちでした。



さて数日後、狸さんがテレビを見ていますと、何やら狐さんが民家に入って葡萄を盗んで捕まってしまったニュースが流れていました。どうやら狐さんの言い分ですと、おいしい葡萄の在処を下調べしておいたのに、明日道具を揃えて取りに行ったら丸ごと収穫されていて、帰り道で同じ葡萄があったのでついつい出来心で盗んでしまったと言うことでした。

それにたいして心理学者さんは『あの狐は、いつも正当化ばかりしているから、これも自業自得ですね』と解説されていたので、狸さんも心理学者さんのおかけで狐さんが保釈された後も美味しい葡萄の先取りが続けられると考えながら、まだ食べ切れていない美味しい葡萄を頬ばったそうです。



おしまい



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  1. 2013/05/24(金) 09:16:51|
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遺伝説と環境説 ~『人さまざま』~




人間の人さまざまの性格について、二つの観点がある。それは先天的個性とする遺伝説と後天的個性とする環境説だ。

ところで古代ギリシャのアリストテレス(前384-322)は事物の原因に四つの質料因、形相因、作用因、目的因をあげたようですが、ここでは人間の性格を考える上で目的因を除く三つに限定することにし、銅像でたとえておきますと、材料である銅が『質料因』であり、像の形が『形相因』、そして形の加工作用が『作用因』となります。

ただ念のためもう一つ注意を述べておきますと、質料因、形相因、作用因の三つ一組は、『現実の原因』と言うよりかは現実を解釈するにあたっての人間の『思考形式』と考えてもらった方がよいかも知れません。



さて人さまざまの個性的性格について遺伝説と環境説に分かれるのは、現実解釈するにあたっての思考形式の取り方によります。遺伝説は質料の相違に求めるのにたいして、環境説は作用因による形相の相違に求めているわけです。

そこでアリストテレスの思考形式の適用を見てますと、奴隷については遺伝説を採用しているようであります。『政治学』第一巻・第五章の最後の一節を引用しますと『自然によって或る人々は自由人であり、或る人々は奴隷であるということ、そして後者にとっては奴隷であることが有益なことであり、正しいことでもある』と主張されています。

いやはや現代においてはパワハラ発言の一種と言われかねない文言と思われますが、当時のインテリ階級にとっては見事にプラトンの『国家論』の分業論と融合させた帰結と、重宝し合っていたことでしょう。おそらく奴隷階級においても『おまえら、ふざけたこと、言うな!』と暴れ出した勢力がいれば、逆に大人しく従っている振りをすることによって暴動奴隷よりかは大切にしてもらうことにシメシメ感が身についた勢力など、色々といたと思われます。

もう少し補足しておきますと、たとえ同じ階級分業だとにしても、分業論自体が浸透しているか浸透していないかで大きく社会的内実は異なります。つまりアリストテレスは遺伝説を浸透させることによって、新たなインテリ階級の君臨を助ける道具を与えたことになったと言えます。

もはや今日では心理学的発展によって奴隷遺伝説は排除されたわけですが、しかし奴隷遺伝説が浸透していたことによって生じていた『知識作用の社会学』についても心理学者たちや社会学者たちのみなさんはきちんと検証し、今日の社会へ与えている現代心理学自体の知識作用についても公表して行く必要でありました。

まあ、過ぎたことは大目に見てやることにして、アリストテレスのちょっと後輩のテオプラストス(前371-287)は『ギリシャ本土が同一気候で受ける教育も同じなのに、どうしてギリシャ人の気質が同じでないのか不思議である』と、『人それぞれ』の冒頭で記している。つまりアリストテレスといい、テオプラストスといい、ほとんど後天的な環境の影響について知らずにいたため、遺伝説や努力の結果として考える傾向にあったと言えよう。

やがてヒポクラテス(前460-375)の四体液病理説からは紀元後のガレノス(129-199)の四体液説に受け継がれ、広く遺伝説の雰囲気が浸透していたものと考えておけます。また当然なことではありますが、そこには後天的な環境説への関心は、ほとんど進められなかったことを意味します。



そんな世界観の状況下で、徐々に性格の環境説が大きく顔を出してきたのは、『社会に関する新見解』1813 のイギリスのオーウェンあたりかも知れません。その内容は素朴ではありましたが、イギリスではロックの『タブラ・ラサ (白紙)』から形成論的な思考が働き始め、それが性格形成論にも適用され始めたかのように思われます。他方の大陸側であるデカルト合理主義の場合は、手持ちの素材から論理的に新たな帰結を引き出す方法に集中していたのにたいして、イギリス側の経験主義は『タブラ・ラサ』の考察から新たに形成論的に素材を扱う方法を身に付けたものと言えます。

なるほど、はじめのうちはオーウェンのように教育格差や知識差を性格形成に重ねて考えていたようなものだったのでしょう。しかし同様の教育体制の中にありながら各生徒たちに多様性が生じていることについても充分に吟味しなければなりませんから、問題は遺伝説と環境説を包含した解釈図式の行方に求められます。



まず第一の問題は『同じ環境において相違が生じているから、遺伝による個性である』とする考え方には、我々が環境について全知ではない点が考慮されないまま排除されています。つまり『同じ環境』という判断自体が大まか過ぎる曖昧なものであるにも拘わらず、それを飛び越えて遺伝説へと偏り、環境説の新たな可能性を知らぬまま排除しています。

ただし一方で環境説を強調することによっても遺伝説についての新たな意見を排除しようとする目論見が生じていると言えましょう。しかし『理論主張の再帰性』を考えますと、遺伝説者とは自らについても『遺伝説に偏る思考能力が遺伝した人物である』と言わねばならず、かつ環境説者については『遺伝説がわからない思考が遺伝してしまった人々』と判断したがっていると揶揄されても仕方がないでしょう。逆に環境説者は自らの知識形成が環境に左右されて収集して来た点に基づくのであり、遺伝説者たちについても同様に観察する立場にあるわけです。

つまり『遺伝説か?環境説か?』の問題は決して心理学的内容に限定して論証合戦する必要はなく、現に議論をしている遺伝説者と環境説者にたいしても当てはめてみれば、一定の新しい視座が得られるでしょう。これも一種の心理学者という『現実』と心理学者が抱いている『現実観』という『現実と現実観のハウリング』として考察する方法に含まれます。



ともあれ、オーウェンのあたりから環境説の性格形成論が強まり始めたとしても、まだまだオーウェンの理論には同様の教育下で様々な生徒がいることの多様性については充分な見解は示されていません。そこでフロント理論から離反したユングが記した『タイプ論』1921 によって新たな多様性についての詳細化が進んだと言えるかも知れませんが、ただしユングは環境説から離れてアリストテレスやテオプラストスのような遺伝説の立場に寄っています。


『同じ母親から生まれた二人の子供が、母親の根本態度には少しも変化が認められないのに、早くからぜんぜん正反対のタイプを示すこともある。………ほとんど測り知られぬと言ってよい両親の影響の重要性を過小評価するつもりは毛頭ないが、この場合の決定的要因は子供の生まれつきの素質の中に求めるべきと結論せざるを得ない。』(第十章・序論)


全く後天的な環境の影響を具体的に示すには、時代的に相当困難な学的状況だったと言えます。概要だけを述べますが、後天的環境の影響を明らかにしていくキーワードは、ユングの言う『根本態度 Einstellung』や『統覚 Appeirzeption』、それにフッサールの『指向性 intention』に加えておきます。

それは性格の多様性を、知識形態もしくは世界観形態の現れと見ることを意味し、従来の漠然とした知識形態によって命名されていた各性格についての語彙に批判を加えます。そう、性格についての命名自体が実はある特定の性格を持つ人間が行った帰結であって、もっとも様々な知識形態の人々が相互作用した結果から漠然と個人の性格を命名してきた実態を考察しなければならないのです。



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  1. 2013/04/19(金) 01:10:37|
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ジョージ・ソロス『再帰性』と心理学の構造




ジョージ・ソロスの『再帰性』は投資の分野に限らず、心理学や社会学に応用できる現実解釈の図式を持つ。彼の記号的表記によると、次のように表すらしい。


W:現実世界
U:世界解釈
FC:認識機能
FM:操作機能

FC(W) → U ………①
FM(U) → W ………②


現実世界について認識する個人が状況解釈することを表したのが①式であり、その状況解釈に基づいて個人が世界へ働きかけた現実世界の結果を表したのが②式である。

そこで①式の左辺を②式のUへ代入し、②式の左辺を①式のWへ代入すると


FM[FC(W)] → W ………③
FC[FM(U)] → U ………④


となり、③式はWの再帰を表し、④式はUの再帰を表した形と言える。つまり『世界を認識し操作する個人が社会的現実を成り立たせている状況』を示したのが③であり、『解釈に基づいて操作した結果を再認識して行く状況』を示したのか④である。

そう、『イノベージョン』の意識には③と④の二種類あることになるのだ。④の場合は、理解に基づいて操作し、その社会的結果を認識して新たな理解をすると言ったように理解中心にイノベージョンが繰り返されるのである。またそれは分業社会の一部に囲まれているため、下手をすれば部分的イノベージョンに集中し過ぎたガラバゴス化の可能性を秘めてしまっている。

一方③の場合は、世界認識に基づいて理解し、その操作結果が新たな現実世界に残されていくと言った繰り返しなのである。そして④の自己理解中心か、③の現実世界中心かの違いは、無神論の日本人と一神教のユダヤ人と言った大まかな相違にも関係していると言っておこう。

ただしソロスのW(現実世界)にも、『不確実性』が踏まえられている点を忘れてはならない。カントの哲学で言うならば、それは『物自体』あるいは『事自体』である。あるいは客観的Wと主観的Uの関係と言い換えてみるのもよいかも知れない。

だがソロスの客観的な事自体Wは、我々が使う客観的とは異なる。我々が用いているのは自らの専門分野を演出して部外者の恐縮を狙う内容を公開しない客観的であるか、あるいは支持者集め(先取り根回し)に客観的を演出する傾向に彩られているのである。



では堀江貴文の粉飾決算の容疑や村上世彰のインサイダー取引の容疑とジョージ・ソロスの投資とでは、一体何が異なっているのか?

ソロスは再帰性を利用した投資家君臨を目指していたわけではなく、再帰性の現実認識を示すために投資家という一つの方法を選んだ形であった。そもそも投資家君臨が第一目標ならば再帰性理論を公表する必要がなかったと考えるべきであり、むしろ再帰性理論を示すために現行投資家たちや哲学者たちへ問題提起を残したかったためと見るべきであろう。

ソロスはフリードマンの新自由主義の側にはない。新自由主義のインテリ思考にたいする挑戦であり、ソロスも自らが好む方法と自覚した上ではあるが、投資による利益を税金徴収と考え、慈善事業へ予算配分する『国境なき政治家』の気持ちなのだ。現行のインテリ階級は自分たちの不可知性は仕方がないと互いに守りながら一般階級に尻を拭かせていることにたいして、ロビン・フッドやネズミ小僧やルパン三世的な方法で税金徴収をし、慈善事業へと予算を配分する選挙なき投資政治家というわけである。



繰り返すこと、ソロスの『再帰性』は金融投資に限ったことではない。

FC(W) → U ………①
FM(U) → W ………②

に『人間』と『心理学』を当てはめてみれば

FC(人間) → 心理学 ………①
FM(心理学) → 人間 ………②

となる。

心理学者たちは①を主張して自らの理論を守り、影で②の作用を行いながら人間を管理しているのだ。つまり大切な非公開なる②の作用を守るため、公開する勢力が一日も長く入り込まないように自分たちに有利に働くような①の主張ばかりを繰り返すのである。

全く心理学の再帰性が明らかになれば、ソロスが考えていたことも少しはわかってくるであろうし、逆に心理学の再帰性が明るみになるためにソロスを学ぶのも一つの方法ではあろう。



FM[FC(人間)] → 人間 ………③
FC[FM(心理学)] → 心理学 ………④

タコツボ化された心理学者たちの自ら囲った領域内で非公開に繰り返している操作が④である。そして心理学者たちが社会へ影響を与えているところの実態を表しているのが③となる。

いずれ心理学の社会的再帰性理論が言葉の障害物競争の実態を明らかにする時代が来るのだろうが、現時点では明らかにされては困るために再帰性利権を守るための操作が繰り返されているのである。

これ名付けること、『現実と現実観のハウリング』としておく。


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  1. 2013/04/17(水) 19:55:31|
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『四十七士物語』と『坊ちゃん』 ~ギリシャ神話と『菊と刀』~




アメリカの人類学者ベネディクト女史が著した日本人論『菊と刀』1946 では、『四十七士物語』(第十章)と漱石の『坊ちゃん』(第五章)について触れられている。

ベネディクトは『坊ちゃん』について『些細な事柄についてのこのような神経の過敏さ、このような傷つきさは、アメリカでは、不良青年の記録や、神経病患者の病歴簿の中で見受けられるだけである。』と記されおり、なるほど、後のサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』1951が精神分析的に解釈されていたであろうアメリカの実情も納得がいくところである。さらに別のところでは『古代ギリシャ人を思い起こさせるほど、繊細さに対する強い愛をもっている日本人』(第十一章)としているから、『過剰反応か?繊細感受か?』について各人それぞれ勝手に選別できる一般的状況も察せられよう。

おそらくサリンジャーの繊細さ――――いや、ここはイジリ屋上手の精神解説者さんに味方をしておいた方がよさそうなので、『過剰反応』としておきたい――――には日本の芭蕉や一茶や西行の句を引用していたことにも関係していたのであり、ベネディクトが日本と古代ギリシャを重ねたのも、一つに『平家物語』や『方丈記』の繊細さがヘラクレイトスの『万物は流転する』と類似した観点に由来していたものと考えられます。



実際、ヘラクレイトスの後にアイスキュロスやソポクレスのギリシャ悲劇の時代が訪れている。そう、古代ギリシャ悲劇は『四十七士物語』と『坊ちゃん』と微妙に隣接しているのである。アポロンとカサンドラの関係はクレオンとアンティゴネの関係に等しく、かつ浅野候と吉良候の関係、赤シャツと坊ちゃんの関係と等しい。

おそらく日本文化で悲劇とならないのは、ベネディクトがいう『自己練達』が絡んでいるからであり、『うっかり探し』と『恨み晴らし』の雰囲気にあるからだろう。ただ『四十七士物語』は団体対決であるのにたいして『坊ちゃん』では個人主義の対決となり、特に戦後は『組織と個人』の見解を通して解釈されるようになったのだ。

ギリシャ悲劇の一つであるソポクレスの『オイディプス王』にしても、日本人にかかると組織論である。オイディプスのような対応は人脈なき『うっかり』であって、充分な説明をしないまま『真摯に受け止める』と表明するのが基本なのである。あるいはダメ元で過去の精算を狙う『想定外だった』が、様子見のための第一手順に使われた原発事故後の日本だったのだ。

ただ中には『オイディプス王』を心理学的に解釈する少数勢力もあり、文学あたりにも用いれられたりしているようである。やはりそこには政治意識や社会意識は充分とは言えず、現に日々のニュースでビンビンと感じられる組織論にたいしても関心を抱いてもらい、是非考慮していただく必要がありそうだ。



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バスケット部体罰の自殺問題




はじめニュースを見た時のこと、体罰を行った顧問指導者は相当の実績があったらしいから、再度の実績残しを目指して『もっとしごかないといけない』へと自己実績指導論に固執して行ったように思った。生徒の側にしても実績ある顧問指導者だから『自らの頑張り不足』』と考えていたのかも知れない。

一体、顧問指導者は昨年のナデシコ・サッカーについて何を思っていたのだろうか?まるで自分の指導論と異なっていたので、過去の自己の実績を再起させたいがために強行体罰を行ってしまったように思えてならない。

顧問指導者は自らの実績にたいして対戦ライバルたちが随時調査分析して挑んでくることに無頓着だったと思える。つまりライバルの君臨を調査分析できず、ただ過去の自己指導論を証明したいことに集中化してしまった結果と思えるのである。

また今日になって顧問指導者が長年に渡り異動がなかった点が問題があがったので、なおさら周囲も実績指導者にものが言えず、実績指導者も自己指導論への集中化に邁進してしまったと思えます。



いやはや、もはや顧問指導者だけの問題ではない。ものを言わなかった周囲の牽制意識や心理学者や社会学者などの怠慢のらくら体制にある。

遅すぎる学的権威にある人々たちの現実認識。

橋下市長によって出来るだけ実態調査が進むことを願う。

全く心理学者や社会学者たちも狭い領域をクローズアップさせながら自分の出番確保をすることで満足していないで、いい加減、広い現実認識が普及するようマトモな見解を示し始めてもらいたいものである。



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  1. 2013/01/10(木) 23:36:10|
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