思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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思考形態の世界史




我々は世界史の知識を大なり小なり人それぞれ抱いている。しかし世界史的知識を抱いているという現実自体が、実は実際の世界史的事実に含まれているにもかかわらず、互いにそれに触れず生活しているのだ。

つまりプライベートな知識所有の実態に触れず、もはや伝統的なパブリック的教育の場に限定された知識検定の道具として、自らの知識を歴史の外に置きながら歴史を解釈する態度が身に付いた。それはまるで 「アキレスと亀」 のような自身の知識に流れている時間を知らないで、知識内で歴史をいじくり回すのとよく似ている。


そんな世界史的知識状況にたいして、ヴィーコの 「新しい学」 で、ようやく言語は歴史を説明するための道具に限らず、言語の使用自体が歴史的現実だったとして考察されるようになった。

ただし、まだまだヴィーコの場合は、歴史的現実を検証するためだけに言語の歴史を考察するに留まっていた感があり、各人の言語使用による社会的状態の恒常化という、歴史的に様々に点在する各時代各地域についての社会学的観点が弱かった。それを補い始めたのが、一つにウェーバーのプロテスタンティズムの倫理による資本主義社会の恒常化に認められる考察方法である。

やがてウェーバーが宗教社会学を目指すようになったのも、プロテスタンティズムの倫理からの全般的な世界史への拡張であろう。ここでは西欧のみを中心に扱った訳だが、一応ウェーバーの包括的世界史も念頭に置いた方法と理解していただきたい。

その代わり、知識所持の現実(知識とは必ず人間によって抱かれている)について、ウェーバーよりは、【互いに評価し合いながら進行する所属集団内の状態恒常化や変化推移の因果的連続性】を示唆できたと思う。つまりプロテスタンティズムの倫理とは集団内の互いに評価し合う評価尺度の変化であり、それが新たな資本主義へ変化した訳である。ウェーバーは経済倫理と宗教の関係に集中していた感じだが、ここではもっと広い互いに評価し合う【評価尺度】の理念的歴史へと広げ、特に古代ギリシャの【知の評価尺度】と古代ローマの【公共性の評価尺度】で比較検討を試みることになった。

現代社会の流布しているたいていの心理学や社会学とは、自らの方法や理論が歴史的に限られているにもかかわらず、その自らが人々によって評価され評価している現実には触れない理論ばかりである。そうした非公開な理論の流通実態を自覚させる意味で、ここに新しい知識歴史学が始められたのである。




ヴィーコの理念史
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ギリシャ思考形態
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ラテン思考形態
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旧約聖書
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ヘブライ思考とギリシャ思考
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ローマ帝国滅亡論
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ローマ帝国とキリスト教
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ルネサンスとキリスト教
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三位一体説と理神論
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ギリシャ語とラテン語
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イギリス自由観とフランス自由観
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フランス啓蒙主義とドイツ歴史学
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知識論的解釈
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カントからマルクス
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「発展」 と 「変化」
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フランス機能主義とドイツ実存主義
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国民性の歴史学的分類
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汎神論的歴史観
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世界史の中の明治維新
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  1. 2020/01/01(水) 23:42:45|
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四見一水 ~対立軸の社会学~





手を打てば猿沢の池(一水四見)

一水四見は人それぞれ異なった見方をして行動をする点に注目するが、人それぞれ異なった見方をするがゆえに生じる社会的結果(四見一水)については残念ながら充分に配慮が行き届いているとは言えない。

実は、世の中は対立軸で動く。もはや単なる西洋のキリスト教と東洋の仏教という比較論ではなく、むしろキリスト教が普及した対立軸の歴史と仏教が普及した対立軸の歴史というものが重要となる。


【西欧】

唯名論と実念論(普遍論争)

教皇派と皇帝派

カトリックとプロテスタント(16世紀)

【日本】

朝廷と幕府(12世紀末)

自力本願と他力本願(13世紀)


対立軸と言っても宗教分野に限らず、今や色々な対立軸の歴史があり、巨大メディアの影響によって主要対立軸が操作されてもいる。(西洋と東洋という対立軸によって、国内の対立軸を皮相化させることもある)



西欧の教皇派と皇帝派の対立は、日本の朝廷と幕府の対立と若干似ていた。



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  1. 2016/01/04(月) 09:16:25|
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【算数ごっこ】三平方の奇遇定理




a^2+b^2=c^2

【命題】三平方の自然数定理 c>a、c>b において、cが偶数の場合、aとbは偶数である。


自然数の二乗は奇数を奇数、偶数を偶数とするため、a,b,cの三つの中で奇数となる個数は、0個か2個の偶数個であり、1個と3個の奇数個の場合は矛盾する。するとcが偶数の場合、aとbは共に偶数か、共に奇数である。

そこでaとbが共に異なる奇数の場合を考えますと、奇数の二乗は、1,9,25,49,81,121,169………であり、その差は8,16,24,32,40,48………であるため、aの二乗とbの二乗の差は8の倍数である。

ゆえにb^2=a^2+8mとおくと、a^2+b^2=2・a^2+8mで、c=√2√(a^2+4m)。しかし(a^2+4m)は奇数と偶数の和で奇数となるので、前方√2と掛けあわさって自然数2になりえないため矛盾する。

よってcが偶数の場合、aとbが共に奇数とはなりえず、a,b,cは三つ揃って偶数である。



【命題】三平方の自然数定理が成立するa,b,cが三つとも偶数の場合、それぞれ三つの最大公約数で割ったa',b',c'とすると、a'とb'のどちらかが奇数で、かつc'は奇数になるまでさかのぼれる。またa',b',c'の間で三平方の自然数定理が成り立つ。


a,b,cが三つとも偶数の時、(2a')^2+(2b')^2=(2c')^2 より 4・(a'^2+b'^2)=4・(c'^2) と変形できるため、 a'^2+b'^2=c'^2 も成り立ち、かつc'が奇数になるまでさかのぼれる。

また奇数の公約数nを有する場合も同様、(na')^2+(nb')^2=(nc')^2 より n^2・(a'^2+b'^2)=n^2・(c'^2) と変形でき、a'^2+b'^2=c'^2 が成り立ち、公約数がなくなるまでさかのぼれる。



【命題】三平方の自然数定理が成り立っているa,b,cにおいて、cが奇数の場合、a,bのどちらか偶数側は4の倍数である。


奇数c=2z+1、奇数2x+1、偶数2yとおくと

(2x+1)^2+(2y)^2=(2z+1)^2

4x^2+4x+1+4y^2=4z^2+4z+1

x(x+1)+y^2=z(z+1)


x(x+1)とz(z+1)が偶数であるから、y^2 も偶数。よってcが奇数の時のa,bどちらか偶数側は4の倍数でもある。


三平方の奇遇(奇偶)定理

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  1. 2013/09/16(月) 21:12:18|
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カフカ『城』 ~中央集権の非公開確保~




『変身』や『審判』は、日常生活を繰り返して来た中で、いきなり訳も分からない正義(もしくは周辺常識)の発信によって睨まれるようになった状況から、物語が始まっている。その点『城』は余所者として扱われるところは似ているのだが、ただし予め自らがその地を選んで入り込んだ点で、『変身』や『審判』の突発的に生じた日常生活との離反とは異なった雰囲気にあります。

そもそも『城』1922 は第一次世界大戦の後の作品であって、大戦終戦前の『変身』1912『審判』1914 の頃と状況は異なっていた。おおよそ第一次大戦の終結直後は、しばらくは戦争を起こさない起こせない前提のもとで停戦産業化の雰囲気に包まていたように思われますが、同時に民族自決による国家独立も進んでいた時期であり、まだ国家内の民族問題は主題になりえなかったことでしょう。(民族問題は第二次大戦へ向かうに従い、主題化されて行ったと見なす)

つまり城が象徴していた一つは国家の中枢だったのであり、土着民族の方が互いに共同体を理解しやすい立場だったために有利だったとも考えられます。もはや『創世記』(第39章から第41章)のヨセフのような他国エジプトでスンナリ君臨する物語とは大きく異なったカフカの『城』であって、自らを支えるために四苦八苦する城(『創世記』で言えばエジプト中枢)の一人調査隊なのである。またカフカはシオニスト会議にも顔を出したことがあったようですが、『出エジプト記』のように簡単には仲間と共に新たな律法に基づいた移転先を開拓できる時代ではなかった点で、エジプトで定住するための四苦八苦物語に近い内容に値します。



ところでフランスのカミュがカフカについて語るには、『審判』は診断し『城』は治療法を描いたと記したわけですが、そうしたカミュの不条理を基準とした判断には疑問があります。カフカの小説は決して『不条理に囲まれた個人』という実存主義が主題ではありません。すでにカフカは法学博士の学位を授与されていたことから、法学知識を有した上で『審判』を執筆していますから、むしろ様々な『不条理に囲まれた個人』が集まった社会状況を想定していたと考えられます。




知識流通の図を用いて説明しますと、『城』は中枢の黒円に相当し、主人公の『K』は準位が低い周辺部の緑円から参入したことになります。もちろん中枢の黒円には一つの赤円が接しているわけではなく、色んな分野に分かれて複数の赤円が接しているわけです。

カフカの『城』は緑円から入り込んで中枢の黒円へ近づいて行こうとする主人公Kの四苦八苦物語なのですが、物語に直接投影したかどうかは別問題としてカフカが抱いていた社会観としては、黒円の中で何らかの知識が流通することを想定していたと思われます。実際のところ『審判』にしても、単に不条理に包まれた個人だけが問題ではなくして、もっと周辺の名も知らぬあらゆる人物たちの間でも絶え間なく知識を流通し続けている現実を想定した上で、時に一個人の身の上に起き得るだろう一例を小説として示したものと、カフカ自身に法学の知識があったことも合わせると考えざるおえないでしょう。

おそらく『審判』の第九章の『掟の前の門番』とは、知識流通の図で言う緑、青、赤、黒へと次第に高い準位の知識流通の場へ向かう一つの例に相当すると考えられ、それは『城』の第十五章においても類似したイメージが読み取れそうな感じもします。たとえば城の中に従事するバルナバスにとって幾重にも置かれた柵が感じられるものと描かれており、またオルガとKの会話においては、何か沈黙と傍観を通そうとしたアマーリアに『掟の前の門番』にたいする立ち止まりが暗示されている感じがします。



このように考えてみますと、どうも戦後フランスにおけるカミュとサルトルにおける『反抗か?革命か?』の議論は、カフカの小説を実存主義の観点に限定にした上の社会活動の問題であり、小説家カフカの社会観が捉えられていなかった感じがします。そしてフランスで構造主義が台頭した事情も、そんなカフカとカミュやサルトルの社会観の相違が影響したものと考えられます。


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  1. 2013/07/01(月) 20:52:45|
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カフカ『変身』 ~月光仮面のおじさんの場合~




日本で『変身』と言えば、やっぱ月光仮面に始まり、ウルトラマンに仮面ライダーだ。だけどカフカの『変身』を読むと、何だか自らの意図しない突然の困った変化であって、どうやら日本の月光仮面の一応はカッコイイと認めて欲しい姿隠しとは、ちょっと違っている。

いずれにせよ、変身の後には習慣化された視線とは一味異なった眼差しで周囲から見つめられる点では同じだ。カフカの場合は、たとえば介護問題などのように突然日常生活から離反してしまった戸惑いであるのにたいして、日本の月光仮面の場合は、格好良く正義を示したいところで人々に売名行為と呼ばれる危険性や日常生活で敵組織に狙われやすくなる危険性などを気にして意図的に変身を編み出したのである。



結局のところ、カフカの『変身』ではグレーゴルは死んでしまう。誰からも期待されていなかった変身だったから、その期待されていない様子を観察して死んで、残された人々の前向きで終わる。

それに比べて、日本の変身ものは生きていくのに役立つ仮面の意味であるため死の意味は希薄であり、むしろ死んじゃうのは怪獣の方だ。なるほど主題は売名行為を隠すための正義の変身なのであるが、ひょっとしたら怪獣誕生にカフカの『変身』のような物語が隠されているのかも知れない。

つまり怪獣は期待されない『変身』の結果であり、わけもわからず悪者扱いする訴訟を起こされた『審判』にたいして暴れ出した疑いがある。





『タイの寺院』にいる虎が、かわいい。

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  1. 2013/07/01(月) 19:18:02|
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