思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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背中を丸めるの巻

「子は親の背を見て育つ」と人は言う。しかし、猫も負けずに親の背を見て育つ。その点、吾輩も例外に漏れず、人間なんかの背中など頼りにせず、猫の背を見て育ったことになる。実際、この吾輩の暢気さは、もともとの素性余すことなく備わった結果とも言えるのではあるが、一方では代々なされてきた親の背から学んだ結果でもある。

すれば吾輩の暢気さに不服のある者、「親の顔を見てみたい」と言って異議申し立てをするは、正当なる訴えと言える。反対に生来の暢気さとして吾輩を睨み付けるは、誠に逆恨みも甚だしい。

しかし今日の吾輩から申すこと、残念ながら、もはや親の行方などは、よう知らぬ。しかも今さら吾輩の親の顔を見たとて、大した結論は多分出てこないとアドバイスしたい。いずれにせよ何の因果か、気付けばこんな猫に育ってしまった吾輩なのである。

思うこと、吾輩たちの背中とはどんなものものだろう。昼寝なんかの上手に丸められた背中を始め、危険対象を注視した緊張感あふるる丸い背中、あるいは小高きより落ちる時なんかの捻り具合に富む柔らかき背中など、身内を誉める訳ではないが、なかなかのもんである。それから、いざという緊急事態の際に必要となる瞬発力を蓄えておくためにも、一時も無駄にしちゃあならぬとばかりに、のらりくらりと歩みゆく後ろ姿なんかは、まさに親の背中から教わるところの最たるものである。

しかし背中で育つと言っても、人と猫とでは若干違っている。人の世では背筋なるものピーンと伸ばすが好みと見たが、吾輩どもはやはり、猫背の方が好みである。

いやはや人々の暮らしの中、一般的に軽蔑されている猫背であるが、されど柔道なんかにゃあ~、いなかっぺ大将の恩師ニャンコ先生からもわかる通り、柔らかき猫背から発展したものにある。また背筋を伸ばすなんて言うものなどは所詮、自分自身でも得体が知れぬ動作なのだが、お尻を突き上げては少々遠めに置かれた前足頼りに自ら伏せる、あの寝起きの際になされるものだけで充分足りるのである。

ところで世の中とは、背中を見て育つ一方、真正面からこちらへと訴えてくる、「教育」とか言うものなんかもある。その正面からの教育にたいしては、吾輩が観察するところ、人それぞれ対応が異なっていて、結果、その対応方法の是非が互いの人間たちにからんでなのか、あれこれと生徒の中でも争いが生じている。その点、吾輩たちの場合と言えば、ほとんど共通した澄まし顔で正面からの教育光線に対応するため、それが原因で起こる仲間同士の内輪揉めは、ほとんどない。

そう言えば、昔、ツッパリスタイルの「なめ猫ブーム」とやらが騒がれていたのを記憶しているが、実際の我々猫軍団の本心を言わせてもらえば、別に舐められたところで痛くも痒くもないと反論しておきたい。むしろ冷めぬまま出される出来立てのスープ方が、ずっと応える吾輩たちなのである。



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  1. 2010/08/18(水) 04:31:44|
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ない爪を隠したいの巻

「能ある鷹は爪を隠す」と、たびたび耳にする訳だが、能ある猫なんかも爪を隠すらしい。出来れば吾輩も、そんな格好いい爪隠しなんかをやってみたいのだが、しかしもともとそんな能がある爪など吾輩にはない。そんな訳で結局は、「能ある振りして、ない爪隠す」の方を選ばざる負えなくなる吾輩である。さらに困ったことには現実の厳しさのゆえ、こんな吾輩のない爪を隠してみたところで、さほど人々の注意も集まらないのが世の常である。

仕方がないので吾輩からすれば、わざわざ人の視界に映る場所へと出向いては、しきりに顔を洗う素振りなどを試みては、ない爪隠したこの手をアピールをしてはみる。しかしたいていは「かわいい」と言って抱き上げられるか、「チェ」っと横っ腹を蹴られては隅っこに追いやられるのがやっとで、ほんに目が点になる暇さえもない。つまり「これって一体……」といった解説のように、かの取り残された自分を放つ、そんなわずかな香りさえも広がる時間がないのである。

さて吾輩の奮闘努力の悲しみは置いといて、こんな吾輩でも能ある鷹と言うか、能ある猫とやらの存在識別に関しては、危険察知に長けた猫なる性のゆえ、ちょっとばかりの自信がある。

例えば猫の危険察知能力とは、道端における野良猫と見知らぬ人との距離具合でわかる。吾輩どもはいざという時の瞬発力発揮のためか、普段は余計なエネルギーを極力避けるよう、出来る限りの暢気さが義務づけられている。そしてその見知らぬ人が近づこうとする際のあのギリギリの距離まで保つあの丸い体、そう、危険領域に入ったら直ちに逃げれるように上手に丸めた体と、一方では危険が遠のく可能性を見つめた瞬発力節約の計算、そこに猫の危険察知能力の高さが認められるのである。当然、日常に潜む周囲に散りばめられているであろう爪の危険性についても、絶え間なく警戒している猫なのである。

なので「能ある猫は隠れた爪を覗く」とか言う、そんな類の諺が万が一できるのであるならば、鷹のような勇敢な賢さには遠く及ばぬが、賢さの目利き役としては、この吾輩の鼻も少しは高くなるのではないかと期待できる。

そして吾輩の鼻も高くなってくれば、狐さんや狸さんたちのお顔にも少々似てくるので、彼らと等しく、麺類なんかのネーミング参加権も同時に獲得できるであろう。気が早いかも知れないが、うどんとそばは、もう狐さんと狸さんに奪われてしまっているので、吾輩としてはラーメンあたりを狙っている。いやはや、ふと夢が広がったついでに、具は何にしたらよいもんかとあれこれ考えようとも思ったのだが、結局は「猫ラーメン」というネーミングの響きの方が気になり始めてしまう、そんな吾輩である。

……全く、吾輩どもは余計なことは考えず、ひたすら宅配業に専念した方がよいのであろう。



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  1. 2010/08/16(月) 23:00:08|
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中国に学ぶの巻

干支と言えば、中には知っておられる方々もあろうが、吾輩達の中でも古くから伝わっているのである。

それは昔のある日のこと。神様の使いがそれぞれの動物さんたちに干支の順番を決める日時を知らせに来たそうで、吾輩達のご先祖様にしても、いつもの平常心を変える気配さえなく、それはもう出来る限りの暢気のままに、寝ながらその知らせを聞いていたそうだ。その後、ぱっちりと目を覚ました際には、「まあそうめったにないことだから、ここは手際よく一番を戴くことにしよう」と、ふと思い付いたらしい。ところが何せ、日頃の守らなければならないお昼寝という習慣に集中していたこともあり、ただただ軽く聞いていたため、全く聞いたはずの日時が思い出せない。仕方がないので、さっそく鼠さんの捕獲に向かっては取引をし、日時を教えてもらったかわりに逃がしてやった。数日たったその鼠さんに教わった当日のこと、神様の元へと早くから出掛けた吾輩たちのご先祖様である。「しめしめ誰もいない、一番確定だ!」と思いきや、いくら時が過ぎても誰も来ない。ちょっこら何かの用事で家から出てきた神様に事情を聞けば、すでに干支の順番づけは昨日決められたそうで、一番を獲得したのはみなさんご存知、鼠さんだったというお話だ。

それは吾輩たちの、そんな狙い澄ましたチャッカリ者という長所も、その特技をいいことに自惚れてしまうと、知らぬ間に反対のウッカリ者にされてしまうと言った教訓手引の物語である。実際、神様はこの点をよ~く反省するようにと、それ以来、吾輩たちには頻繁に顔を洗う習性とやらを備えつけたらしい。

ともかく吾輩たちと鼠さんとの関わりには古くからの歴史がある。紐解けば、この干支の逸話といい、ドラえもん耳なし事件といい、必ずしも弱肉強食の法則が成り立つとは限らず、うかうかと自身の才能に甘んじてはいられないのである。

そんな訳で吾輩も、自然と勉学に励むことになる。まずは自分自身を知らなければならぬぞと漢和辞典を開けば、「猫」という漢字がある。獣ヘんに「苗」、「苗」と言うことは稲に成りうる可能性を秘めたる存在かと、自覚も芽生える。しかし今日日本のパン食の増大を見ると、時代に逆行している感じがしてきて、せっかく芽生えたやる気も何やら半減してくるが、どうせ「稲」となれば食べられてしまうのであるから、吾輩とすれば、もう米食かパン食かの問題はどうでもよい。

さらに調べるて行くと、「苗」に「手」が付くと「描」になる。吾輩も掌を手前側にして見つめること、この手が獣に取って代れば「猫」から「描」になるのかと、再度辞書に視線を移しては考えてみた。

なるほど、吾輩も鼠を追い回す獣性などは今日限り捨て去り、めまぐるしく変わる現代社会の中、猫の手も借りたいほどしい方々の、心亡くしてれてしまった数々の風景、多忙知らずの暢気なる吾輩が、この世の真実を描いては、人々のくしてしまったの穴を埋めるがわが使命かと、誰から頼まれるもなく、熱く燃える次第である。



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  1. 2010/08/16(月) 01:56:22|
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ドラえもんには耳がないの巻

あれ……? あれ、あれ? ないぞ、ない、ない、ドラえもんには耳がないぞ?

同胞なるは猫仲間の一身として、顔を洗おうと右手を差し出したついでに、自らの耳の有無なんかも探ってみては、ちょいとドラえもんのお姿を見つめること、やはりいくら目を凝らして見たとて、ドラえもんには耳がない。なんとも吾輩ども猫を代表すること、人気者なるはドラえもん。何故に耳がないのかと少々心配となって調べてみれば、どうやら昔、ある鼠さん一族によって、見事にかじり穫られてしまったらしい。何事があったか詳細のほどはよう知らんが、ここにはきっと、決して涙なしでは語れぬ、深~い深い事情がありそうだ。

ご存知? われら猫一族とは、それはもう遠い昔からのことなのだが、たとえばネズミ退治の薬なんかに「猫いらず」と名付けられて来たことからも自ずとわかるが如く、鼠を捕獲する技のみで重宝され、ほとんどいやいや仕方なく飼われてきた存在なのである。そんな吾輩達が鼠に耳をかじり穫られるとは、なんたる不幸中の不幸ぞ。決して「不幸中の幸い」では語り尽くせぬ、そんな涙が溢れてきそうなお話なのである。もはや人々からは全く相手にされない無意味な余生しか思い浮かばない、地獄絵巻にも負けずと劣らぬ世界である。

されどそこは我等のドラえもん。人々のお役に立ちたいとの一心にて、必死に人々の要請を探るにあり。そして様々さまよい歩くこと、ようやく見つけたるが、発明の道。ちびまるちゃんたるもオススメとなるは、かの伝記でお馴染みエジソン様。はや猫の世界からも、近く「伝記・ドラえもん」の出版とやらが待たれる御時世にあり。

ところで話はハッピーエンドに終わるを知らない。ここは是非ともサクセスストーリーの涙を拭いていただき、篤と続きのご静聴、ご期待申す次第。

と言うのも、ドラちゃんの発明品を産むに至ること、それは耳なし人生以来、何とかなった次第だが、新たな問題たるは、のび太君なり。こののび太君たるは、ドラちゃんの人々からの要請に応えたいといったあの気持ち、それはもう巧みなほどによく熟知しているが故、かのドラちゃんも、結局は不本意ながらも、ついつい貸してしまうにある。

まあもともとの猫の習性であったのならば、のび太君の猫なで声なんかにゃ~、持ち前の素知らぬ顔にて、右手でも舐めつつ、普段の身嗜みなどに専念する場面。されど耳なきドラちゃんの立場とあらば、もはやネズミ穫りの技もなきにありて、それは何とも、いた仕方がない。ああ、いつの日よりか発明の道を辿るも、やがては副産物を生むこと、それはのび太君的なるドラちゃん利用意識の新たな誕生に、何とも一肌脱いだ形で貢献した、ドラえもんとなるかや?

そんな訳で、わが猫一族に共通する着ぐるみにも似たこの体毛も、今はなきドラえもんである事情、かの一肌脱いだ結果ではないかと、吾輩たちの間では、もっぱら噂を越えた定説に向かう響きにあり。全く余計な心配かも知れぬが、吾輩にとってはドラえもんのあの丸い手、上手に爪を隠した結果かどうかが、少々気にかかる……



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  1. 2010/08/15(日) 11:10:58|
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猫も前向きに励むの巻

おい! 誰だ、一体! 「猫の手を借りたいほど忙しい」と、騒ぎ立てては、日夜走り回るとは!

いやはや、いきなり人々の駆けずり回る生活の中、揶揄されたとは言え、ちょいと顔を覗かせては、苦情を申し立てたる吾輩の御無礼、誠に反省を求められるに相当するに候でござる。

遅れながらも自己紹介のほど申し上げれば、えっへん、漱石さんにお世話になっておった猫と同様、吾輩には名前はまだない。どこで生まれたかも見当つかぬ境遇なども何やら一緒でござって、ひよっとしたら、漱石さんに御世話いただいた、かの猫の一族の近くに位置しているのではないかと、時々感じる吾輩なのである。

さてはて、いざ日頃の冷静さなるを取り戻しつつ、本題に戻ってみること、かの吾輩の暢気さを揶揄されてきた方々の中にも、時を経れば自らも「暢気」の称号を与えられるはめになる輩もいるであろう。すれば、「これと言ってロクな功績などたいしてない癖に、よくも堂々と言うか何と言うか、すまし顔なんぞで過ごせるもんだなぁ~」と、軽蔑のお気持ちが込められながらも、少々の羨みなんかも見え隠れした、そんな今までとはちがった視線で見直されてきている。いやはや本当、さほど気にはしていなかった吾輩であったが、記憶から人々の歴史を整理すること、改めて自分の長所に気付かされた一件である。

それはそうと、いつしか「前向き」とか言うものが、ここかしこと騒がれ始めた頃の話、吾輩も時流に乗り遅れちゃあ~ならぬと、一時間前の吾輩の一掻きによる鼠捕獲といった大手柄、一日前の魚をくわえた故のサザエさんとの追いかけ事件、強いては三十年ほど前のナメ猫ブームに、百年前の漱石さん再読などと、誰にも負けちゃならぬとばかりに「前へ! 前へ! 」と歴史研究に没頭した訳である。

そんな努力に明け暮れていたある日、ふと横を向くと、右にも左にも誰もおらぬ。これは「日頃の吾輩の頑張りが先頭に立つ結果になったんだな」と思いつつ、何気に後ろを見てみると、ただみんなの背中が見えるだけなのである。「全く前向きの時代なのに暢気な奴らだ」と観察していると、彼らは陽が昇る方向へと一心に進んでいるのであって、どうやら彼らから見ると、むしろ吾輩の方が後ろ向きに映っているらしい。

なるほど、そんな事情もあってか、今どきの「前向き」のスローガンに頼るみなさんのため、今ここに、こうして"自分がいることの歴史的な再確認"と言った、そんな前向きもあるぞと、「幸運を呼ぶ」名のもと配布された招き猫たちが、もう一つの「前向き」の布教活動に励む今日この頃である。



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  1. 2010/08/13(金) 18:53:04|
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