思考の社会学 〜心理学革命〜
ドイツ歴史学とフランス啓蒙主義
2010/05/23 02:08

デカルトに代表される合理主義からフランス革命に繋がる啓蒙主義への流れにあったフランスの思想界にたいして、19世紀のドイツではナポレオン侵攻に伴って新しい歴史学が興った。ナポレオンのドイツ侵攻の際、フィヒテが「ドイツ国民へ告ぐ」を発したのは1807年、ニーブールに続く歴史学のランケが12歳の時であった。

ドイツではナポレオンの外圧にたいして、フィヒテはベルリン大学でドイツ国民へ訴えかけた。しかし黒船以来の日本の幕末で、日本国民に向けた訴えはあったのだろうか?大学らしきものはなく、国民あるいは庶民に向けた発言は、皆無であっただろう。日本の大政奉還、王政復古の明治維新に至ったのは、ある特定の有志に駆け引きによってである。

また幕末日本の外圧は全くの未知なるものであったが、ドイツの外圧フランスはちょっとした知り合いであった点で事情が異なる。つまりドイツでは何でナポレオンなる者が侵攻して来ることになったのかを探る手立てを歴史学に求めることができ、その啓蒙主義によるフランス革命を起こさない自国ドイツの事情の歴史を調べる領域にも関心も生じていたと言える。それは外圧にたいする良い戦略が何かないものかと歴史に学ぼうとする態度とは異なる、新しい歴史学に相当するのだ。

しかしナポレオンの侵攻によってドイツに新しい歴史学が興ったといっても、他の文化圏も同様に侵攻によって生じる訳ではないから、ドイツの土着世界観を基礎として興りえた歴史学と考えなければならない。

ランケの歴史学が発生する前段階のドイツにおける世界観とは、実のところそのランケが記した「宗教改革時代のドイツ史」1839〜47のルターに関する著書に認められる。ルターの宗教改革と言えば、今日の日本における中高等学校で学ばれる世界史にも載っている事柄であるが、その聖書中心主義にドイツ歴史学の理念が繋がっているのである。

免罪符の販売が問題視された宗教改革であるのだが、その教皇が新たに施した免罪符の販売、つまり【新たに付け加えられた理念】として見て、聖書の原典に遡り、現在までに新たに付け加えられた理念を拾い集め、その新たに付け加えられた社会背景、さらにその付け加えられた後の社会的影響の歴史を見るのである。キリスト教はローマカトリック教会とギリシャ正教会に分かれたが、カトリック側には加えられたが、正教会側に加えられていないことの差異に、ランケは触れている。実際、ランケは民族性や国民性の分類を前提としており、処女作「ローマ的、ゲルマン的諸民族史」1824の題名や、また「列強論」1833においてわざわざ「ゲルマン人カール12世」、「スラヴ人ピョートル」と人種名を記していることに、その分類が認められるのだ。

それが意味することとは、ランケが"言語がそれを使用する文化圏や社会と密接に関係していること"を解釈図式に含んでいたであろうことである。18世紀後半の理性論を著したカントがいたドイツであり、言語と精神構造の関連性を示唆した言語学者のフンボルトとは(交流があったかわからないが)、活動時期が重なっている。それは同時に"ドイツ精神"といった国民的精神と繋がっている。ランケのから始まったとされる客観的歴史学とは、一つに、"人間が知識や思想など理念を抱いている現実"を解釈図式に含めた知識論的考察を進めたことにあろう。それは理性に絶大の信頼を寄せる合理主義や啓蒙主義では届かなかった領域分野なのである。

日本の夏目漱石が、西欧諸国についての歴史を追究には時期早で、外発的開化としての日本文化の行く末に「私の個人主義」や諸小説で問題を投げかけた。そして加藤周一は日本文化の雑種性と考えて、土着世界観からの日本史へと向かった。その加藤氏の日本文学史は、教訓的歴史学や進歩的歴史学から隔たっている意味で、ランケの歴史学に達しているし、国民の精神性への関心や知識論的解釈に踏み込んでもいる。まさに外圧を意識したゆえの、自民族の精神についての関心を寄せたランケに類似する加藤周一である。

ただし、加藤氏と言えども西欧諸国の監視干渉し合ってきた歴史までには充分に至っていない。私が新しい日本人論から新しい世界史への道を目指す基盤になるのは加藤氏の「日本文学史序説」であったが、それはランケの歴史学を基盤にすることを意味し、その要因となったナポレオン、フランス革命、フランス啓蒙主義の自由観と遡る歴史学、はたまたフランス自由観とイギリス自由観の対比と繋がっていくことになる。


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