思考の社会学 〜心理学革命〜
譲れぬ思考
2010/04/07 12:44

我々は各人、独自の思考パターンで生活している。たとえば政治討論の番組などに見られる議論の場を思い描いて貰えれば、その様々な人々の思考パターンの顕著なる様子が想像できるかも知れない。あるいは政治家と芸能人と分類して、その思考パターンの違いを感じることもできるだろう。しかし我々の一般的な普段の日常生活においても、人それぞれ異なった思考パターンを働かせて生活している。
そこではじめに問題としたいのが、【譲れぬ思考】という事柄です。それは意地っ張り、頑固、執念深い、気が強いなどに似たような状態に潜んでいる思考パターンみたいなものだと、簡単に言っておけるです。
そもそも"譲れぬ思考"とは、他者があってこそ生じるものです。一般的な周辺他者の穏やかに見える会話などの場合には、そこに彼らの思考パターンが働いているのですが、一方の"譲れぬ思考"の場合には、まさに彼らの思考パターンにたいして自らの思考パターンの従属化を拒否し、自らの思考パターンを譲れぬものとします。その結果、他者の思考パターンに流されまいと自尊心の傾向に向いていきます。また「君たちとは僕は違うんだぞ」といった雰囲気をかもし出そうと試みる虚栄心的な傾向が生じることもあるでしよう。
さらに参考のため、心理学者ユングの用いた「外向型」と「内向型」の分類を加えて説明をすれば、虚栄心的な態度などに外向型の思考パターンが認められます。また内向型の思考パターンとしては、ノイローゼとか鬱と呼ばれる状態がその例に挙げられます。

周りくどい論述になりましたが、要するにここでのキーワードは、内向型タイプの中の"譲れぬ思考"となります。一体、何を言いたいかと言えば、著名なる功績を残した人々の中には、若い頃は内向的傾向にあったという例が相当数ある点です。テレビで活躍する比較的明るい印象を与える人々の中にも、かなりの例があることを我々は知っています。それは決して不思議なことではありません。不思議に思えるのは、ただ「外向型と内向型を生得な先天的性格」という考えを抱いているからに過ぎないのです。決して周囲との波長が合わない自分が生じるのは、人々の社会適応能力の結果ではありません。それは周囲の思考パターンと自身の思考パターンの波長が合わない結果なのです。確かに周囲にいる一般的な各個人の場合も、周囲との波長のズレが、多少なりとも生じています。そのため「誰もが周囲とのズレを感じている」ことを第一前提と考え込んでしまったために、「みんなは適応できるのに、私は適応できない」と思い悩むようになります。そもそもそんな「適応能力」なんて、はじめからありません。それは管理する側が管理するにあたって都合のいいものにすぎません。
なるほど、「前向き思考」「プラス思考」「ポジティブ思考」などのスローガンは、そんな実態のない社会的統治効果のために発せられるレッテルにたいして、その罠にはまらぬようにと登場したのだろう。しかしそうした前向き思考は左右の行き交う人々の現実を見ない。まるで横断歩道を笑顔のまま前だけを見て渡るようなものだ。天気のよい昼間の場合は、車の運転者もその前向きの輝きに自然と止まってくれていたが、基本は左右よく見てから渡るべきだと思う。
そして若い頃の内向的"譲れぬ思考"の内いくつかの場合は、やがて周囲の思考パターンと協和し、驚くほどに一変する。彼は人々の思考パターンの他に、自らが譲らなかった思考パターンの両方を融合しているからだ。人々は「若い頃は内気だったのに、今では人が変わったかのようだ」と不思議そうに囁き合う。彼らは協和する仲間同士の思考パターンの中で生活してきたが、彼の内向型の思考パターンには全く気にも留めなかったし知る手掛かりさえなかったのであるが、一方の変貌した側の彼は、自らの"譲れぬ思考"パターンに加えて、周辺他者の思考パターンに気を留めざる負えなかったのである。
まさに周辺大多数の思考パターンへの対処法がわからず、悩んでいる状態が、「内気」と呼ばれる正体だったのだ。その「内気」と呼んでいた周辺他者の側は、彼の思考パターンを見なかったし、わからなかった、そのため、その後の驚くべき変貌に不思議がるのである。私から言わせれば、それを不思議と思うこと自体が不思議と言いたいところだが、しかし彼らの「昔は内気だったのに〜」といった思考パターンを考えれば、彼らが不思議と思うことは別に不思議ではない。「内気」と呼んでいる段階で彼の思考パターンについての無知と無関心を意味しているのだから。

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