思考の社会学 〜心理学革命〜
自尊心と虚栄心
2010/03/18 18:06

イギリスとフランスとでは、自由観や寛容観で異なっているであろう状況を記してみたが、次にそのそれぞれの文化圏で暮らすことで恒常的に形成されやすい一般的心理傾向について述べたい。簡単に言ってしまえば、それはイギリスの自尊心とフランスの虚栄心の傾向である。イギリス人の自尊心の傾向は、フランス側からの著書から幾つかを拾うことができ、ラ・メトリ「人間機械論」ではイギリス人の傲慢さと不従順、ルソーの「告白」ではイギリス人には傲慢から生じる偏見があると記されている。傲慢とは、おおよそ自尊心から生じる態度に名付けられるものなのであろう。そしてスタンダールの「恋愛論」にも、イギリスの自尊心、フランスの虚栄心の傾向が認めることができる。

さてイギリス人が抱く自由観や寛容観から察すれば、イギリス人とは意見の多様性を配慮する口数少ないことにことに寛容を求め、それに自尊心を持つにいたり、時にはその自尊心から自信も生じ、態度に傲慢性が現れる傾向にあると思われる。喩えれば、各人がそれぞれ自分の意見を主張するのに忙しい人々に向けて、"彼らには社会的安定のためになす品格ある意見の多様性についての配慮が足りない"と思いながら示す態度である。フランス人からすれば、多様性の配慮などに寛容を置かないし、自分の意見を言うのにも自らの弱さを自覚した上で発言しているつもりでいるので、イギリス人の多様性配慮の態度についてはイギリス人自身の弱さへの無頓着さを結論づけ、なおさら傲慢なイギリス人と見えるのであろう。(この点に関して注意しなければならないのは、イギリス人に関する傲慢の心理学的考察ではなく、「人間の弱さ」を前提としながら「傲慢」と判断するフランス人についての心理学的考察である)

さて日本の状況はどうか。鶴田浩二の「傷だらけの人生」71を見れば、イギリスの寛容観とフランスの寛容観の接点のようなものが伺える。「右を向いても左を見ても、馬鹿と阿呆の絡み合い」に、イギリス的寛容観に近い立場からの発言が認められ(ただしイギリス的議論体制の理念は日本文化では未熟状態)、「何だかんだとお説教じみたことを申して参りましたが、そういう私も日陰育ちのひねくれ者、お天道様に背中を向けて歩く、馬鹿な人間でございます」と、フランス的寛容観へ向けた挨拶がなされている。そして70年代には、鳥やカモメを通して各人がフランスの自由観や寛容観の方へ傾いて行き、漫才ブームでは、まさにフランスの自由観や寛容観の蔓延した若者世代の支持を集めた。一方の保守年長世代はと言えば、古き寛容観の側にあり、オシンドロームと名付けられることとなる「おしん」に見られる忍耐や試練の理念に傾倒していた。日本では、全くイギリスのような"社会的安定のためになされる多様性配慮の態度"を評価する力がほとんど働くことはなかった。もしあったならば、すでに懸命な二大政党制になっていたであろう。日本の野党分裂化は自己信念の優先であり、もし多様性配慮の懸命なる政治的効果が共有化されていたら、与党やその与党支持者にたいする効果を働かす目的でまとまっていたであろう。野党側の支持者が多様化していたため、より党の信頼度を高めようとそれぞれ分裂したのか、野党指導者の譲れぬ理念争いによって分裂したのかは全く問題ではなく、二大政党制的効果に野党が結束しえなかったのは、"社会安定のための多様性配慮"の理念が共有化されていなかった日本社会だったことを意味する。日本で認められてきた多様性配慮とは、せいぜい"世の中をたくさん経験してきた長老者の貫禄\"で調停役を任される一個人のその場の君主的役割だけで、議論の場の成員全体に共有化されたものではない。2009年の政権交代によって推進された二大政党制理念でさえも、まだまだ弱小である。マスコミの"政治家と国民視線"の対立理念による報道にたいして、充分な苦言が届かないのだから。イギリス的理念の場合は、もっと国民側についても二大対立に分けた上で、その国民的対立を二大政党制の対立に対応させながら議論すると思われる。政治家も国民も選挙が終われば"現政権と国民意識"の対立の方へ話題が振り回され、選挙時の国民を含めた"二大政党の対立"を維持した充分な議論ができない。
イギリスの自尊心とは、つまり"多様性を配慮する寛容"を示すことにあり、その多様の配慮を互いにその都度評価しながら時代を経てきたのだろう。しかし80年代からの日本では、そのイギリス的な旧来の寛容観は新たなフランス的な寛容観とは議論されることなく撃退された。いや実際は二つの寛容観の混在状況になったのだ。新規のフランス的自由観、寛容観は、旧年長世代について、それを話がわからない「傲慢」と見立てながら台頭した。旧来のイギリス的自由観、寛容観は、多様性配慮の社会的効果を共有化し説明する努力など知らず、独立自尊的な個人主義的苦労の成熟に酔い、「今の若い者は〜」と語るほかない。この混在状況は会話効果の闘争へ向かわせ、虚栄心の傾向を示すこととなる。。
ではイギリスの自尊心にたいしてフランスの虚栄心とは何であろう。「世の中はこんなものだよ」といった雰囲気をかもしだす態度が代表例であろう。自尊心は周囲に振り回されないように努力し、自分の"能力"を見せようとするが、虚栄心は周囲を振り回そうと努力し、自分の"効果"を見せようとする。虚栄心とは、世の中に相手にされなかった過去の自分の立場から、その世の中で認められるところの会話の効果を自らの観察によって実践するようなものである。そのため「世の中なんてこんなものだよ」といった雰囲気になるのであり、他者を振り回す自分の効果が関心事となる。恐らくマルキ・ド・サドの場合は、虚栄心が共有されていたフランス文化の中で、新たな虚栄心の形態を生み出した結果であろう。サドは虚栄心思考を通しながら、過去の美徳効果の失敗、そして勝利を得た側の悪徳効果という原型を得ていたと思われる。サディズムとは虚栄心による"効果"中心思考によって生じる、自分の発する効果をマゾにたいして見たい願望によるものでだろう。彼は現実社会の上層権力に不満を持つが、周囲の上層権力への対応に不満なき幸せな人々を感じる。その不満なき幸せをマゾに見立てて、自らはサディズムになる。(マゾヒズムは権力に不満を持たず、他の人々と比べながら、権力にたいする服従対応の仕方に自尊心を持とうとする傾向。人々に支配効果を発する権力者の内なるヴィーナスを知っていること、他の服従者とは異なる自らの服従に自尊心を持つ)彼は現実の上層権力側が実際に気を使っている事柄について知らないし興味がない。ただその彼らがなす効果を自ら憧れながら解釈するのみで、その効果についての解釈によって世界を眺めたいと願う、「世の中なんてこんなものだよ」と囁きながら。サディズムとは、現実の権力側とその幸せ的な追従側をセットにして憎み、その双方にアンチテーゼを示す一つ方策を編み出した結果であり、その自らが編み出した方策にタブーの秘境征服の知的満足を感じる。

我々は自らの抱く知識で活動している。またその状況を各々が自らの知識を通して解釈してもいる。その解釈の多様性が社会状況を作り上げている。知識の真偽、その知識の有効活用などの議論などは知識社会学にはどうでもよい。むしろ知識社会学では、その真偽、有効活用を議論していることと社会状況の関連性が問題である。その議論状況の知識社会学的な観察から、新しい進出方法を編み出していく人々の存在に気づいた方がよさそうだ。

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