思考の社会学 〜心理学革命〜
ボッティチェリの憂鬱 〜キリスト教から見たルネサンス〜
2011/05/18 18:47

14世紀頃のイタリアを中心として始まった文化全般の革新状況は、 「ルネサンス」(復興再生) と呼ばれている。その 「ルネサンス」 なる用語とは、19世紀に入ったミシュレやブルクハルトによって広まったものらしい。そして復興再生へいたった過程については、313年のミラノ勅令や392年のキリスト教国教化と、キリスト教が古代ローマを覆い隠すかのように普及浸透してゆき、そのキリスト教によって覆い隠されてきた古代ギリシャ文化や古代ローマ文化の再復興がなされた形である。

そんなルネサンス発生を促した一つには、教皇と皇帝の勢力関係があったと言える。1095年のクレルモン宗教会議の時点では十字軍の派遣が開始されていた点で、教皇優勢の時代背景が感じられる。やがてイタリアなどでは教皇派と皇帝派に分かれた争いも生じ、保守的教皇勢力にたいする新たな皇帝勢力の側から様々な古代ローマなどの文化復興が起こった形である。たとえば教皇派の生まれではあったダンテ(1265-1321)だったが、やがてキリスト教以前の古代ローマ文化に触れていった点で、当時のイタリアの文化状況を察することができるだろうし、教皇アビニョン捕囚(1309-1377)の頃には教皇権威も弱体化し、フランスやイギリスの国王が台頭した。



さて、伝統的キリスト教理念と新たなルネサンス的理念の混在に位置するものとしては、絵画で言うとボッティチェリ(1445-1510)の 「ヴィーナスの誕生」 に象徴されると思われる。実際、中世キリスト教理念にあったアンジェリコ(1387-1455)とルネサンス色が濃くなったダヴィンチ(1452-1520)と、時期的に挟まれていたボッティチェリと言えないだろうか?

仮に 「ヴィーナスの誕生」 に古代ギリシャの神話や彫刻などの古代文化の復興要素を認めたとしても、反対にその憂いを帯びた瞳には当時の伝統となっていたキリスト教理念が同時に残されている感じがする訳である。

たとえばダヴィンチの 「最後の晩餐」 やラファエロの 「変容」 でも新約聖書を題材に含めていた訳だが、それらと比べてみても 「ヴィーナスの誕生」 の方が、より多くの伝統的キリスト教的理念を残しているように思える。あくまでもダヴィンチとラファエロは、ルネサンスの風潮に慣れてからキリスト教をテーマに取り入れたのであって、キリスト教を基調とした立場からルネサンス風潮へ参加したのはボッティチェリなのである。それゆえ 「ヴィーナスの誕生」 にキリスト教からルネサンスへ向かう両者の混在が認められると言える。



ボッティチェリは、キリスト教理念が色濃く残りながらも新たなルネサンスの風が吹き始めた広場にいた。「ヴィーナスの誕生」 とは、伝統的キリスト教理念が蓄積された瞳で世を見つめ、新たなルネサンス理念の風に髪をなびかせている風景である。そして伝統と自由の双方にさらされた憂鬱が、まるで小首を傾げながら微妙なバランスを取っているような感じである。それに比べてモナリザの首の場合は、あまりにも正面を気にしている。

おそらくボッティチェリは、大きな時代の変わり目、キリスト教とルネサンスの双方が混在した社会状況を描いたのである。ボッティチェリと同時期ロレンツォ(1449-1492)の詞が、その新しきルネサンスの風にあたる。

美しき青春
しかし散る
今がその時
明日は未知

大正日本で言えば、「命短し恋せよ乙女」 である。しかしボッティチェリの場合は、旧約聖書 「伝道の書」 も残されている感じである。

若き日に造り主を覚えよ。歳を重ねて 「こんなはずではなかった」 とならない前に、造り主を覚えよ。(12章)



第二次世界大戦が終わってしばらくして、リースマンの 「孤独な群衆」 1950 が話題となった。その用語を借りれば、ボッティチェリが描いたのは、教会的な伝統指向型を背中に背負いながら、ルネサンスの風景を他者指向型で見つめる瞳であった感じである。そのキリスト教とルネサンスの格差とは、20世紀後半からの世代間格差と重なるものだろう。

一般的に新しい文化が発生してくると、新しい文化の先導的集団と伝統文化の擁護的集団とに分かれ、それぞれが互いに相手側を揶揄することとなるのが通例である。そんな中で、それぞれが自集団の支え合いを頼りに言論の自由を実践している状況を見つめるのが、ヴィーナスに代表されるボッティチェリが描いた瞳なのである。

また彼によって描かれた口元も、言いたいことはあっても伝わらないと諦めた口元であり、中には微かなため息が聞こえてきそうな半開きの口元となっている。新しい文化と伝統文化の双方、あるいは様々な自集団中心的なまとまりが散らばっている社会状況を全体的に把握しようとする場合、たいてい人々が頼りの寄りどころとする、そんな素朴な自らが所属する集団の支えが見当たらないからである。

ボッティチェリが描いたヴィーナスの裸体とは、ルネサンスを先導するものではない。ルネサンスの風潮に対応した貴族的誕生なのだ。ヴィーナスの瞳には伝統的キリスト教もしくはプラトン的イデアの眼差しがあり、自らの裸体を見つめる人々の評価能力を漠然と見渡しているのである。様々な人々を見渡したが、その様々な人々がいることの社会的結果を見極めようにも、まだ理解できない段階であるため、ただ今は出来事の記憶に徹している感じである。

さらに喩えるならば、マンハイムの知識社会学が言うところの 「浮動的インテリゲンチア」 がヴィーナスである。誰もが相手方の考え方をイデオロギーと揶揄して自集団のまとまりで活動している社会状況自体を、全体的イデオロギー(世界観)を普遍的(自他共に、あらゆる人々)に把握しようとするのである。パリスの審判でアプロディテ(ヴィーナス)が示した提案は何であったか?ヴィーナスは最も美しいヘレネを提案して、人々の動きを観察したように、ボッティチェリのヴィーナスは、自らの裸体を示して人々の動きを観察し始めたのである。ヴィーナスは自らが輝くことが目的ではない。輝いた社会的結果を記憶し、未来への社会的事業を思案するのである。



そもそも現在にいたるボッティチェリ絵画の評価とは、実のところ19世紀イギリスのラファエル前派から次第にヨーロッパに広がった結果らしい。すでにイギリスでは産業革命が進行していた頃で、伝統の立場からすれば、目まぐるしく変わってゆく時代的流転状況が認識されていた訳で、すればボッティチェリが伝統的キリスト教の立場から見ていた、新たに流転してゆくルネサンス的状況の認識と微妙にも重なり合ったものだと言える。

すでにイギリスは、17世紀に清教徒革命による共和政もクロムウェルの独裁となり、王政復古へ戻した。18世紀のフランス革命にたいしては伝統配慮を示す保守主義のバークが出た。つまり敵方配慮の有無による社会的影響を双方が認め合った体制を構築したイギリスであって、そのためラファエロ以前の絵画に共振した時代を迎えたのであろう。ただし、それは他者配慮社会の謳歌ではなく、産業開発に意識を集中させた自集団の拡張が進む中、他者配慮が評価されなくなったからである。



ボッティチェリの憂鬱。それは全体的社会配慮のさまよいである。フロイトやユングなどから浸透し始めた科学の仮面をつけた個人心理学だが、未だに改善の見込みなし。もっと人さまざまな社会配慮の形態やその様々な社会配慮をする人々が集まった社会的場についての社会学を進めない限り、結局は、とぼけた心理学者の社会的立場を見守ってあげなければならないため、今日も憂鬱になるボッティチェリである。しかし彼らはボッティチェリの周辺を自分好みにあさっては憂鬱の原因を探るだけであろう。ただ自らの心理学者としての社会的貢献のみを目指しなから。



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