思考の社会学 〜心理学革命〜
パリスの審判と共和政 〜ラテン思考形態〜
2011/05/13 21:31

紀元前27年、オクタビアヌスが元老院からアウグストゥスの称号を受け共和制およぶ三頭政治からローマ帝政へ移った。ローマ帝政が始まった一因には、奴隷反乱が勃発し、その鎮静にあたる将軍の統治性への期待があろう。非公開の三頭政治における分割統治からカエサルが終身独裁官になるも暗殺、そして二回目の公開三頭政治では分割統治の勢力争いと化し、ようやくローマ帝政となった。

しかしそのローマ帝政への要因には、ウェルギリウスの影響も忘れてはならない。オクタビアヌスと親交があった彼が 「アエネイス」 を執筆し始めたのが紀元前30年。やがてまだ途中である自作に不満を残していたウェルギリウスは、万一のために原稿の焼却を言い残していたのだが、彼の死後、オクタビアヌスはその原稿焼却を禁止したため残されたと言う。

つまりローマ建国をテーマとした 「アエネイス」 によって、オクタビアヌス及びその後の帝政継続が支えられていたいたと言ってよい。マケドニアの場合、アレクサンドロスの死後、直ちに後継者(diadochoi)の争いで分裂したのに比べて、ローマが三頭政治の分裂混乱から帝政の安定がを支持するに至ったのは、その国家的安定を象徴する古代の建国神話が浸透したからである。

極論を示せば、ローマ帝政とは建国王政へのルネサンス(復古)であったのだ。王の追放から共和政へ移行して長らく続いてきたのだが、元老院 senatus(老いた senex に由来)の人生的な経験豊富や権力分裂を招く寡頭政治(三頭政治)は頼りにならず、独裁とも言えるが、権力分裂を避け全体を見る指導力の即効性ぎ期待された一種の王政への復帰で、ウェルギリウスの 「アエネイス」 が手引書になった。

その一番の象徴は 「服従する者は大切に扱い、おごれる者は打ち倒す」 であろう。それはイタリアのヴィーコ(1668-1744)の 「新しい学」 、ドイツのハンナ・アレント(1906-1975)の 「革命について」 でも、ローマの歴史的特質として引用されている。ヴィーコは反デカルトの反合理主義の立場から考察しり、アレントは反フランス啓蒙主義にあたるドイツ歴史主義から発生した、キルケゴール、ハイデガー、フッサール、マンハイムなどの土壌から考察されている。つまり二人とも現代の素朴な社会学や歴史学の方法ではなく、存分に知識社会学や知識歴史学の立場を示し始めた考察となっている。



さて話は横にそれてしまったが、要するにウェルギリウスのローマの建国神話からローマ的精神の復古が試みられ、そしてローマ帝政の安定が生じたのである。そのアイネイアスとは、トロイア戦争の敗戦側トロイアの出である。つまりトロイの木馬を作ったギリシャのオデュッセイアとは対立した側にローマ文化が位置していることを暗に示唆している形である。

トロイア戦争の発端を辿れば、それはトロイの王子バリスがギリシャ側のスパルタ王妃ヘレネを自国へ連れ去ったことにあった。その連れ去るもとになった原因は、不和の林檎の出現から三人の女神の美の審判役にバリスが任命されたことに始まり、三人のうち 「最も美しい女を与える」 と提言したアフロディテ(ウェヌス、ヴィーナス)に林檎を渡し、その最も美しい女がヘレネであったからである。

つまりローマ建国の祖先とは、パリスが選んだ女の美に価値をおいていたこととなり、ギリシャのオデュッセイアの知恵と対比された形である。同時にギリシャの哲学 philosophia の意味は、 「愛 philo 知 sophia」 でもある。徳 arete とは 「卓越性」 の意味があるらしく、ギリシャでは各人の精神の卓越性を鍛えることを求めたと言えるが、一方、ローマでは各人の公共性 publicumを評価尺度とすることで、共和政体 res-publica に美を見たようなものである。

またアイネイアスがローマ建国にいたるまでの過程では、ユノー(ヘラ)の怒りが下す試練が横たわっていた。その怒りの原因とは、パリスの審判に際、当のヘラが選ばれなかったからである。要するにパリスが下した審判の結果、ヘラに呪われる運命となったトロイアであり、アイネイアスがアフロディーテの息子だったので。なおさらであろう。

アイネイアスによってローマ建国へ向かうこととなったトロイアとは、パリスの審判の際、アジア君主の座や戦争の勝利ではなく美を選んだ象徴である。それは統治について、権力の座や戦争勝利のような【君主から発信される力】よりも、美のような【放射しながら互いに評価すること】を選んだことを意味する。決して【美の力】ではない。【美の評価表】のことである。アフロディーテがパリスへ提示したものは、自らの美を提案したのではなく、お手本(評価表)となる最高美のヘレネであって、パリスもそれに同意したのだ。

逆にヘラが断られたことについて言っておけば、それはアジアの君主の座とは、パリスが目指す統治法にとって、さほど重要な事柄とはならなかったことを意味している。またユノーの他にカルタゴ(フェニキア)でアイネイアスと深く関係していた女王ディド(エリッサ)がいる。二人は結びつきながらも、ユピテル(ゼウス)の指令によってアイネイアスはローマ建国のためカルタゴを後にし、ディドは自ら命を絶つことになった。

こうした話の流れは、結局のところ"ローマ建国の使命"にたいする"平穏安楽の犠牲"を示すことにあった。パリスの審判でアフロディーテを選んだのも、それは一つのトロイア勢によるローマ建国の使命に属した事柄と考えてよく、ヘラやアテナによって狙いすまされる犠牲を背負った形なのだ。実際、ゼウスにしてもその犠牲の危険性を自らが避けるために、パリスへ審判役を押しつけたのだろう。

ヘレネを【美の評価表】としたローマ国、つまり建国したトロイアにとって大切だったのは、結局は評価表を社会的に浸透させ、国全体が互いに評価し合うことである。しかし【美】とは象徴であって、その内容には微妙に各人の【公共性】についての評価が含まれていると考えられるのだ。ギリシャ人は外国人をバロバロイ(わからない言葉の話者)と呼び、同胞意識で結束したが、ローマ人は自らの美意識から公共性を誇り見せつけて、外国人に感想を聞いては従わせるのだ。トゥキュディデスが記したギリシャのメロス島征服方法とは、アテネ自らが抱く一種の【知の評価表】に照らし合わせてなされた結果であり、ローマ人が抱く【公共性の評価表】とは大きく異なっている。

その双方の評価表のちがいについては、ギリシャ人ブルタルコスの 「対比列伝」 にも伺い知れる。マケドニアのアレクサンドロス大王が学問や読書を好み、医学などアリストテレスと交流があったと記すのに比べて、ローマのカエサルは多くの危険を求めて成し遂げた支配と偉業も、空しき名と市民の嫉妬を招くことになった栄誉だけだったと言う。まさにアレクサンドロスに知の評価表が働いていていたことについてはがよくわかるが、しかしブルタルコスがギリシャ人だったためか、ローマで公共性の評価表が働いていることが全く認識されていない。ローマでは、政敵との争いは公共評価表についての争いであり、栄誉とは自身の抱いていた公共評価の放射と、人々がその評価表を基準に公共意識を働かせていくだろうことに使命を感じるもので、自身が人々から崇拝されることの方にあるのではない。また嫉妬を抱く人々にたいしては、公共性が判らぬ者だと次の策を練るのである。



おそらくウェルギリウスは、カルタゴ戦争(ポエニ戦争)についても、ローマ建国に至るまでのユノーやディドなどの神話的関係を重ねていたであろうし、それを読むローマ人たちも同様だったであろう。神話の内容が実際の歴史的事実に合致しているかはともかく、ローマ帝政の始まりの頃に生じていたローマ建国観を認め、その建国観も古来からのローマ地域における全般的世界観の歴史的変化に則した結果と見るのがよい。



こうしてラテン思考の特質には [公的 public・私的 privete] の解釈図式があり、人 person の語源である仮面 persona のもとで共和政 republic を見る傾向にある。それは【公共性の評価表】を共有させながら互いに評価することで進んでいこうとする社会観にあろう。比べることギリシャ思考は、【知識の評価表】が強く[観照 theoria・実用 pragma] の対立により、現実追究認識と現世的効果が問題とされる。そして各人はそれぞれ自分もしくは所属団体を守るために知識を総動員する自己工夫が評価表の中心となり、その失敗者は人々の間で威力を持った中庸 mesotes の評価表にって判断される。アイスキュロスの 「縛られたプロメテウス」 は、そのギリシャ的な中庸の評価表が浸透した社会状況を、最もよく表した代表作であろう。またギリシャが卓越性 arete を 「徳」 と解釈した傾向となったが、ローマではその卓越性を 「公共意識」 に求めたと考えておけるし、ローマの 「徳」の場合は、virtus と男性的兵士の意味合いが語源であり、個人の社会参加方式と言うよりは、統治に影響を及ぼす方式の方に重きが置かれている感じである。

あるいはユダヤ人パウロの新約聖書よりギリシャとローマの様相を推測してもよい。ギリシャについては勝手にコリント人に代表させて考えることにしたが、まずはギリシャの【知の評価表】である。「コリント人 一」 1章19-22節 では、その知の評価表を頼りにしているギリシャ文化への提言である。そのギリシャ的な知の評価表は自己工夫の意味が強く、社会的放射(ローマの公共理念の放射)を自己誇示を見る傾向にあるのだろう、「コリント人 二」 11章17節、「愚か者のように自分の誇りとするところを信じきって言う」 とは、ローマの公共性を評価基準とする相互舞台では常識なことで、ギリシャには足りない事柄なのだろう。ローマ人は 「誇る者は主を誇れ」 コリント人 一 1章31節と言うところを、「誇る者は公共性を誇れ」 と言うようなものであろう。

一方、ローマ人については自らの公共性意識の卓越性が大帝国を可能にしていると思っているように感じたのか、「ローマ人」 1章14-17節では、自文化中心的な実用よりはギリシャ語で言う観照 theoria を持った視野を勧めている。ただしギリシャの場合には、自分の観照的理論を各人が持つためか、「コリント人 一」 1章11-12節のような支持学派を表明し合う状態となる。そしてローマ人にはウェルギリウスの 「服従する者は大切に扱い、おごれる者は打ち倒す」 の傾向が認められたのだろう。「ローマ人」 10章21節、「私は服従せずに反抗する民に、終日わたしの手を差し伸べていた」 とユダヤ教及びキリスト教理念を提示したパウロである。



こうしてギリシャとローマを比較して各々の文化圏において主要基準とされていたであろう思考形態のちがいを考えてみたが、しかし日本の文化圏においても大勢の基準とされる思考形態が浸透していて、なおかつ各人もそうした文化環境に囲まれながら自身の思考形態が習慣づけられてきているのである。つまり我々は日本文化に慣らされた思考でギリシャやローマの世界史を解釈しているのであり、様々な時代や地域のそれぞれの物の見方を定めながら、しかも自身の物の見方の世界史的位置づけを自覚していく必要があろう。



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