思考の社会学 〜心理学革命〜
ローマ帝国滅亡論 〜ゲルマン人の監視意識〜
2010/12/13 22:49

ローマ帝国は395年に東西に分裂し、476年にオドアケルにより西ローマ帝国は滅亡した。何よりも簡単な世界史の学習からではあるが、ゲルマン人の大移動がローマ帝国滅亡の大きな要因と納得した自分を覚えている。ここでは、そんな世界史の特に西側のローマ帝国の滅亡から、歴史観の考察をしてみたいと思う。

そこでさっそくだが、おいらの独学的見識の出番だ。中央公論社の世界の名著シリーズ73、トインビーを読めば、ギボン (イギリス 1737〜1794) の 「ローマ帝国衰亡史」 に反対を唱える形で、トインビー自身はローマ帝国に勝利した教会と蛮族とは外部勢力ではなく、支配的少数者から精神的に離れていったヘレニック社会(古代ギリシャに限らず、他に古代ローマを含むもの?)の子であるとされている。(第四篇 第三章) このトインビーの見解には、感動だ。それは 「ローマ帝国が滅びた」 と言うより、むしろ 「ローマ帝政が滅びて他の政体へ入れ替わった」 と言った表現なのである。

日本で喩えれば、どうなるだろう? たとえばギボンの説いた歴史観とは、敗戦によって日本帝国が滅びたと言うものと等しいのである。ただ我々の場合は日本国がそのまま維持継続されていると言った考えを基調としているため、その意味がわかりにくくなる訳だが、その敗戦後に何となく構築されて来た社会状況に不備を感じた状況の中で、新たに過去の日本帝国時代の体制に理想像の概要を求めようとすることに似ているのだ。それは日本帝国が衰退してしまった要因をよく反省することによって、現在の社会体制の立て直しをしょうとすることが、まさにギボンのようなキリスト教会とゲルマン蛮族にローマ帝国滅亡の要因を求めた方法と類似するのである。(国粋主義、全体主義、あるいは政権外交の偏狭などが反省されている点で、大きなちがいがあるが、過去に理想像を求めて現在に活かそうとする歴史観の特質のこと)

イギリスのギボンの前には、フランスのモンテスキュー (1689〜1755) が西ローマ帝国の滅亡について考察している。(「ローマ盛衰原因論」第19章) またそれはティユモンの 「ローマ帝政史」1690 の影響にあるとも言われている。そもそもマキャベリの 「君主論」1513 のキリスト教信仰に没頭していたら、外部勢力に乗っ取られてしまうといった、キリスト教普及前のローマ帝国の社会統治を参考にする、その滅亡要因の反省から新たな社会秩序へ向かおうとするルネサンス思考なのである。(ルネサンスとは、キリスト教流布にある現状から、それ以前の古代ギリシャ、ローマ時代の復興を意味する)

ではそうしたルネサンス期に始まる、反キリスト教的な古代帝国時代を参考にしようとする復興主義的な解釈されたローマ帝国論と、トインビーが示したローマ帝国論とは何がちがうのか?それは過去の隆盛に理想像の輪郭を求め(ルネサンス的復興の特質)、衰退には失敗の原因を見て現在に役立てようとする歴史観にたいして、トインビーは過去の隆盛に理想像の輪郭を見ることを極力避け、衰退に文明内部の少数支配側と内部プロレタリアートの分裂を見て考察しているのである。

実際のところ、西ローマ帝国の滅亡の要因について考えて見れば、様々な解釈が生じてくる。キリスト教とゲルマン人の大移動、あるいは帝国進出停滞の奴隷流入減少、コロナートゥスの大土地所有化などなど色々考えられる。しかし私が問題としたいのは、ローマ帝国滅亡後の、ローマ帝国繁栄期への復興を目指す勢力が台頭しなかったことである。

もしただの武力闘争によるゲルマン人の勝利ならば、そのゲルマン人にたいするローマ帝国繁栄期を理想像としてまとまり反逆する勢力が出てきたであろう。なるほどキリスト教が広まり始めたから、そんな権力闘争に人々が集まる気風になってしまったから、生じなかったと言える。では、新たなゲルマン人台頭にたいして、一般大多数の人々はどのように眺めていたのだろうか?

ローマの平和、五賢帝時代から変貌していったことについて原因を解釈し復興を目指す知識人体制がなかった時代であったためであろうか? そんなものに憧れはなく、あったとしてもその後の変貌に必然性を感じていたため、現状の少数権威発信元の比較品定めに意識が働いていたのだろうか?

今日の日本における大多数の一般人を見れば、少数支配体制なんかは他人事であり、むしろ品定め観察の対象なのであって、ある面、ローマ帝国滅亡もそうだったと思うのが私の歴史観なのだ。ローマ帝国滅亡について四苦八苦していた勢力とは、ある面で大多数からは品定め的に眺められていたのであり、「よその者のゲルマン人の方が、むしろ頼りになるかも知れないぞ」 と思われていたのではないかと、つい極論したくなる訳である。まさに内的プロレタリアート(少数権威側にたいする権利の享受に与らない人々)と少数権威側の分裂に社会統治性を有する文明勢力の滅亡を見たトインビーの見解に私が感動する由縁が、ここにある。



さて問題をローマ・ラテン人とゲルマン人のちがいから、ラテン語とゲルマン語のちがいへ求めて行こう。

ローマ帝国時代、タキトゥスが 「ゲルマニア」 を記したが、タキトゥスこそ、ローマ帝国滅亡の要因を予感していた人物なのかも知れない。何故、ゲルマン人は蛮族と呼ばれたのか? ローマ帝国滅亡は、ローマ人がゲルマン人と呼んでいた意識形態で起こったと言ってもよい。古代ギリシャや古代ローマは、数々の著作が記され残された。しかし古代ゲルマン人が著作を記さなかったことをたよりに、蛮族と見なしてしまったローマ人なのだ。逆に言えば、著作を記し残している自民族を文明人と自称していたに過ぎない。文明人と野蛮人のそうした呼び呼ばれる関係について広く問題提議されたのは20世紀初頭の人類社会学やショペングラーの 「西欧の没落」 からなのである。まあ〜人って奴は、自身にたいする危機意識が生じるまでは、直接に関わりのない人物についてはいつまでも関心を示さず、仲間内で卑下的に解釈して楽しむものと言うことである。

そもそもローマ帝国の外部拡張進出によりゲルマン人の接触や認知にあっただろうし、ゲルマン人の側もローマ帝国についての認知や噂が語り合われていたであろう。ゲルマン人における豪族の発生は豪族頭の社会情勢意識の発達を意味する。またその頭と認める家臣の人物評価の発達をも意味する。

やがてローマ帝国内におけるゲルマン人の傭兵従事やコローヌス従事となって下働き勢力となるが、ゲルマン人には彼らの人脈における情報共有化や意識形態の発達が関わっていたと考えなければならない。おそらくゲルマン人は好戦的であったと言えるかも知れないが、西ローマ帝国滅亡へ向けて、著作に記されることのなかった意識の発達(虚栄心なき監視的現実認識みたいなものだろうか?)を想像する必要がある訳である。素朴な歴史学者は西ローマ帝国を滅亡させたゲルマン人に蛮族を見たが、それは古代ギリシャ・ローマ文化に優越文明を見るローマ人の側に立った呼称である 「蛮族」の用語の意味を疎かにしている。

簡単に言って古代ゲルマン文化より、古代ギリシャ・ローマ文化の方が言語使用の記述の面では発達していたと言える。それは西ゲルマン語に分類されている今日の英語を見ても、数々のギリシャ語やラテン語の導入された形跡が認められるとおりである。おそらく古代ゲルマン人には、古代ギリシャ・ローマ人のような主知主義的自尊心(ニーチェのソクラテス的主知主義批判)はなく、ゲルマン人同士が互いに評価し合う領域が他にあったと思われる。

それは英語で言う guard (監視)である。語源を辿れば、古フランス語を経て定着した単語らしいが、その元は古英語 weardian に由来し、 ward (見張り) と同義であるようだ。同じく西ゲルマン語に分類されるドイツ語で言えば、 warten であり、あるいは意味的には warnen も相当するだろう。たいていはギリシャ・ラテン語を導入したゲルマン語圏なのだが、 guard は数少ない逆にラテン語圏が導入したゲルマン語に相当している訳なのだ。

現在のラテン語群に分類される単語は調べれば
イタリア語 guardare
スペイン語 guardar
フランス語 garder
であろう。自らの古代ギリシャ・ローマの文明に自尊心を持つ傾向にあったラテン語圏の人々からしても、 guard については 「ゲルマン人も、なかなかやるじゃん?」 と言った気持ちだったのか、その語が定着したと考えられる。

つまりゲルマン人たちは頭の統治能力を評価していたのではない。頭の監視能力を評価し監視していた人々なのである。逆のローマ帝国では統治能力をそれぞれが評価して争っていたが、ゲルマン人は互いに監視力を監視仕合い、自身の社会を守るためには、外部への監視を共有化した人々なのであろう。ゲルマン人は監視の共有化によってローマ帝国を滅ぼし、またその監視の共有化による統治を期待されたと言えるのである。

ゲルマン人のローマ帝国への進出を考えると、実に奇妙である。彼らがローマ文化と接触し始めた時、民族集団内で国粋主義者たちみたいな人々の反対によって混乱しなかったのだろうか? 古代ゲルマン人の集団には人々へ意見を述べ支持を得る知識人的な立場がなく、所属集団が崩れないように新たな知識形態へと漸進的に共有しながら進んだ民族に思えてならない。ローマ帝国の崩壊は蛮族の侵略によるものではない。むしろゲルマン思考による侵略なのである。素朴な歴史学者はローマ文化がどのようにゲルマン人から見られていたかを考えもせず、彼らを蛮族と見なしているのである。まさに自身の解釈の仕方に自ら進んだ特質を自負した 「蛮族」 という用語を使っているに過ぎないのだ。



まあ、実際のところ広く詳しい世界史的資料のことまでは、よくわからないので、私の歴史考察は当てにならない。しかし、ローマ帝国の滅亡に関するたいていの歴史学的解釈には、どうもローマ側を中心にしながら、滅亡の失敗とその補足に今後の発展を見る、そんな歴史解釈の特質が占領しているように思えてならないのである。もっとゲルマン人側の意識形態の歴史的変化、またローマ帝国滅亡の後に彼らが与えたであろう物の見方について吟味する必要を感じる訳である。その代表が古代ゲルマン語に由来する現代英語で言うところの guard であり、ローマ人の意識形態とゲルマン人の意識形態を同時進行的な歴史経緯という視座で解釈する必要があろう。 「蛮族の侵入」 を歴史的事実をあらわす用語と考えている内は、それは達成されない。むしろ 「蛮族」 と解釈していたことの歴史的現実について、知る必要があるのである。



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