思考の社会学 〜心理学革命〜
機能主義的社会学の思考形態
2010/10/29 12:00

機能主義的社会学とは結果論的な思考で自らを支えようとする理論である。機能とは英語では function であり、例えば数学の関数 f(x) = 2x + 3 と言った時のf が、その頭文字に相当している。それは変数x が与えられた際の f(x) が定められる仕組みが "機能\" であり、x から f(x) への "方向性のある" 説明なのである。

さてデュルケームの社会学などは機能主義な理論の代表にあげられる訳だが、その一つに 「犯罪が社会的結束に機能する」 と、一定の犯罪率についてそれを正常社会と説明がなされたりする。それを数学的に表現すれば

【道徳的結束 = f(犯罪)】

となる。しかし実際の社会現象をよく見てみれば

【犯罪 = g(道徳的結束)】

でもある。

そう、デュルケームは新たな社会的事実の見方を普及させることに貢献したのだが、しかし自身の見方が生じた思考形態をよく点検しなかったために、聞き手の聴講者に社会を指差して説明するのに忙しく、機能g を隠し、片側の機能f だけしか見なかった。つまり説明したい機能だけを選択して理論づける、結果論的な思考なのである。社会的結果の選択をこっそり行いながら、反論されても自身の社会的事実の選択状況に触れることはなく、外の自身の説明したい機能が働いた社会的結果を指差すだけなのである。いつまで経っても随時起こる社会現象の中から、自身の理論の正当性を示す社会的結果だけを拾い、それを社会的全体像かのように説明するのである。全く反論者にたいしては自理論の説得の繰り返しとなって議論にならず、その議論に反論の打撃を受けない素晴らしき技を感じた聴講者の中からは新たな追従信者の獲得も機能する、そんな社会学理論なのだ。

デュルケームは

【犯罪 = g(道徳的結束)】

の側を見ない一方通行の機能主義であった。たとえば物理学における運動エネルギーKは

【K = 1/2・m・v2】

つまり【K = f(v)】の場合、速度から運動エネルギーへの "同時的" かつ "同一質点的" な機能変換なのだが、犯罪から道徳的結束への機能とは "時間方向的" かつ "質点間的" である。犯罪が起きた後のそれを聞きつけた道徳的結束であり、また犯罪者側から道徳的結束者へと質点も異なった側へと移動しているのである。

物理学では時空間の中に浸透している機能なのだが、デュルケーム社会学では時空間を論述的に利用する機能なのである。もし社会学的に運動エネルギーと速度の関係式のように時空間内の機能として適用させようとするならば

【社会 = f{道徳的結束(t),犯罪(t)}】

より、媒介変数の時間t の一本化である

【社会 = g(t)】

を、たとえ内容の理論づけができなくとも、輪郭的な存在論を想定しなければならなかったのだ。犯罪が一方的に道徳的結束へ機能するだけではなく、道徳的結束側も犯罪側へと機能しているのであって、むしろ双方向の機能が働いていることの機能こそが社会なのである。

しかしデュルケームは正常社会を宣伝したいがために、結果論的説得を特徴とする一方通行の機能主義となってしまった訳であり、部分的一方通行の機能を包括的全体の機能と同一視してしまったのである。


デュルケームは素朴な社会を個人の集合体とする

【社会 = f(個人1,個人2……)】

にたいして、社会とは単なる個人個人の集まりが社会ではないと訴えたまでよかったのだが、しかし奇妙なことに彼の説明には

【社会的機能 = f(社会,個人)】

のような思考形態を含んでしまっている。言ってみれば、肝心の潜在機能による社会現象の存在論的な説明を追究するのではなくして、社会と個人の関係から社会的機能を求め、その正常か病理かの判断基準の方を重視したのだ。機能f は全く存在論的機能ではなく社会的機能を説明するための論理的機能であって、なおかつそれが自覚されていない。むしろ素朴な個人集合的社会に対する新たな社会観としては

【社会 = f{個人1(t),個人2(t)……}】

と、時間t を媒介変数に含め、簡略化した

【社会 = g(t)】

とするべきだったのだ。つまり全体的空間の広がりが社会であって、もし個人との関係を求める際には社会とではなく、他の大多数の個人との関わりによって考えなければならないのである。もし全体が部分へ影響を及ぼしている何かがあるとしても、その全体的社会の内容はかなり不確かなものであり、一般的に言われているところの全体的社会が個人へ及ぼしている影響という理論的説明の内容とは、個人が受ける環境的社会のことであって、全体的社会と言うよりはそれぞれ各個人にたいする外部の大多数の化身にすぎない。この場合の機能f を探求するのが方法論的個人主義で、機能g を探求するのが方法論的全体主義なのであり、デュルケームはこの双方を充分に自覚せずに、素朴な個人主義的集合体的な社会観の不備に対抗して、素朴な全体主義的な立場から考察してしまった傾向にある。



以上のことから実際の社会現象を見るためには、次のことを検討するべきである。

【社会 = f(個人1,個人2……)】
【個人1 = g1(社会環境1)】
【個人2 = g2(社会環境2)】
【個人m = gm(社会環境m)】

であり、代入した

【社会 = f{ g1(社会環境1),g2(社会環境2)…… }】

と見なければならない。(さらには各個人を媒介変数の時間t の関数とした方がよいだろう。すれば各社会環境も、当然、時間t を変数とする関数となる) その個人の中に大多数の集団従属の個人と少数の集団逸脱の犯罪側個人がいる訳である。

また

【社会環境1 = h(個人2,個人3……)】
【社会環境2 = h(個人1,個人3……)】
【社会環境m = h(個人1,個人2……)】(個人m は変数に含まれない)

であり、機能hは各個人の立場から見える環境を意味し、自身が除かれた外部全体を変数に含んでいる。つまり全体的社会現象を意味せず、全体的社会現象とは、社会環境を変数とする各個人の活躍の総称なのだ。そしてその各個人の社会環境の変数として全体的社会現象が理論的な説明方法に用いられるに過ぎない。



再度、デュルケームが示した
【道徳的結束 = f(犯罪)】
と、彼が見逃した
【犯罪 = g(道徳的結束)】
の関係に立ち戻ろう。

f とg とは存在論的に同時であり、かつ通時的に働いているものを意味する。ただ社会学的な理論的説明にあたってそれぞれf とg の時間的前後関係が強調されるにすぎない。f とは "各個人が外部へ影響を与える放射" を意味し、g は "各個人が外部から受ける影響" である。g は決して各個人に与える全体的社会からの影響ではない。各個人に影響を与えていることが社会であって、社会とは個人の外部にあるものではない。もし仮に個人の外部を意味する社会とするならば、物象化を自覚し、物のような現実的存在として社会を見るべきでない。そうした社会観は外部から影響を受ける個人という社会現象の側面を、都合よく選択したり覆い隠したりすることとなる。

アメリカの社会学者マートンが示した 「逆機能」 とは何であったか? 道徳的結束の発生に機能する犯罪にたいする犯罪発生に機能する道徳的結束という観点ではなく、犯罪が道徳的結束に機能することの反対である犯罪が社会的混乱に機能するといった裏面としての逆機能なのである。つまりデュルケームの一方通行的機能にたいする双方化ではなく、一方通行のままの表裏の二面性のことである。

特に官僚についての社会に有益と見なされる順機能にたいして、弊害的なこととしての逆機能が有名なのだが、結局は官僚から社会への一方通行的な機能についての表裏である。もし機能の双方化の観点に立つのならば、たとえばその順機能なり逆機能を果たしている官僚を支えている機能について注目するのであり、その立場に就く人事採用の機能やその官僚の方法を評価批判する専門家なり世論の機能を見たりするのである。一方通行的観点は官僚という部分と社会という全体の関係しか見ようとしない点で、先のデュルケームの
【社会的機能 = f(社会,個人)】
を特徴とする。デュルケームは個人に犯罪を代入し、マートンは個人に官僚を代入しただけなのである。

つまり全体的社会と部分的社会現象の関係に集中する機能主義とは、いつまで経っても一方通行と表裏二面性で思考するに留まる。部分的社会現象は、他の部分的社会現象と関係していること、そして両間の双方向の同時通時性から考察する必要性があるのである。

おそらく問題点は、部分部分の全体構成に関する思考に二種類あることによる。社会契約論のような時間が経過して全体が構成されるものと、身体の臓器集合体のような通時的に浸透している構成とがあるのだ。それぞれの臓器に解剖した状態と、すでに組み合わされている身体内の各臓器の状態とは異なっている。その違いに注目して身体なる社会的現実があると考えるのが全体主義的思考であろう。

しかし厳密に考えると、そうではない。解剖された各臓器が身体のような働きをしないと言う現象も全体的構成の仕組みなのである。素朴な全体主義的思考は身体だけに全体的仕組みを見て、解剖された各臓器が置かれた全風景に全体的仕組みを見ず、ただ全体的仕組みの崩壊と判断するのだ。確かに解剖分割の状態では身体的活動はないが、それは全体の崩壊ではなく身体の崩壊にすぎないことを忘れている。つまり身体として働く時には身体とし働くのであり、身体として働かない時には身体として働かないということこそが、全体的な存在論的仕組みだと言うことを知らないのである。

つまりデュルケームの功績とは、 "時間をかけてなされる部分による全体的構成" という個人主義の批判に限られる。そしてすでに全体的構成が働いていることについて説こうとしたことまではよかったが、しかしその全体を物象化して部分に働いているとしたことによって、その物象化理論による階級社会の形成維持の秘境的道具を与えてしまったことを意味するのである。



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