思考の社会学 〜心理学革命〜
偽装社会学の構造
2010/10/27 22:31

「社会」 などは存在しない。そんなものは、ただの名前にすぎないのである。社会とは存在するものではなく、起きていることなのである。 「神」 を人間が勝手に作り手に作り上げた概念と思っている人々が、 「社会」 の実在性に疑念を抱かない姿を見ると、世の中の自分勝手さに私も負けてはならないと、何だか勇気をもらえる気がする。

実際どうであろう。 「神」などについてはただの名前にすぎないとしながらも、 「社会」 の実在性を強調する態度なんかは、まるで中世ヨーロッパのキリスト教が幅を利かせていた社会構造の中、ただ 「神」 を 「社会」 に入れ替えて世の中を仕切り始めたようなものなのである。彼らの「社会」があると説明する社会理論などは、教会の牧師気分による、信者への説教である。もしも彼らの前で 「社会」 などないと反論しようものなら、社会について知らない奴らだと、信者らの前で僕らを憐れんでくれるのだろう。

「社会がない」 という前提は、あくまでも個人にたいする社会がないと言う意味である。一方の 「社会がある」 と言う前提とは、個人にたいする社会の存在を物象化させることに限って反対したい訳である。

なるほど個人個人は外部から自然的環境の影響下にあると同時に、社会的環境下にさらされている。しかしその "社会的環境" の理論的取り扱い方が問題なのである。社会実在論は物理学の扱う二物体間の衝突の思考形態を社会と個人の図式にそっと重ねて説明する。しかし、それは社会なのではない。個人個人が集められた、ある集団である。むしろ社会とは集団と個人の相互作用がなされている場のことであって、個人に影響を与えたり個人個人が作り上げる "物" ではないのだ。日本語で喩えれば、「長いものには巻かれろ」 の "長いもの" を覗いたら、全員 「長いものには巻かれろ」 と唱えていたって言うことだ。(服従するものの集まりのことで、指導扇動者は含まれないんだろう?長いものの信者に聞かないとわからないんだけど) 彼らは各人、自分が感じる圧力だけで判断して、自分がしていることには関心がないのか、誤魔化したいがために、社会実在論を説いているにすぎない。

「社会」 を物象化するくらいならば、むしろ 「世間」 と言った方が、まだまともな現実観である。と言うのも、人々が評価する圧力として外部圧力を認識するからであって、一方の社会実在論者は、その個人個人が発して出来上がっていることの仕組みを覆い隠し、匿名なる一物体に仕上げてしまっているからである。太宰治は 「人間失格」で 「世間とはおまえだ」 と示したが、さらに我々は世間についての理念を抱いている人々の集合体として 「世間」 を捉えることによって、新たな知識社会学の領域へ向かうべきなのである。

今日では 「世間」 より 「社会」 の理念の方が主流になったことに伴い、 「雰囲気を読む」 から 「空気を読む」 への理念へと移行変化した時代なのである。「世間」 や 「雰囲気」 では、【個人個人が発させたものの総和】としての全体的意味合いを残していた訳なのだが、しかし 「社会」 や 「空気」 によって個人個人が発している様子を覆い隠し、即その生成物(社会や空気)の物象化から現実認識をさせようとし始めたのであり、社会実在論的な理念が幅を利かしている時代状況を意味しているのである。



古くは社会実在論的な思考形態の浸透は、フランスの社会学者デュルケームによってなされてきたと言ってもよい。またフランス学界には社会学の祖とされるコントがいることも、あながち偶然ではないだろう。コントは神学的段階、形而上学的段階、実証的段階という知識の発展段階を示したが、神学的な "牧師と信者の関係" を新たな科学的実証性の風潮に乗って "社会学者と大衆の関係" へ持ち込んだ形なのである。そしてデュルケームは 「共有表象」 ではなく、むしろ 「集合表象」 の方を好んだ。「共有」 の意味合いの場合は、トーマス・ペインで有名な 「常識」 を意味する 「コモンセンス」 の common に近く、イギリスのスコットランドではヒュームの懐疑論にたいして常識哲学の議論がなされていた訳だが、フランスのデュルケームの場合は、わざわざ 「集合」 という漠然とした形を持ち出して表象を説明したのである。

その 「共有」 と 「集合」 のちがいが一体何を意味するかと言えば、それは常識の取り扱い方に関係するのである。現状の大多数が抱いている偏見的な常識を改革しようとするにあたって、改革側は現状の共有知識にたいして新たな共有知識を広めようとする訳だが、デュルケーム学派は、改革派が 「集合表象」 と対決していると見なすのである。つまり保守的集団側は改革側の行いについて、それを社会に対抗する勢力と人々に宣伝し、自らの所属する保守的表象を守る理由を社会を守るためだと自己宣伝したいのである。

またもう一つの 「集合表象」 の役割とは、赤ん坊として生まれた個々人の成長を集合帰属性で図ることにある。我々が大人になる際の知識表象の獲得形成について、それを全般的に浸透している表象への共有化と捉えるのではなく、有益な集合体への帰属と評価したいのである。特に若い頃の個人的意志が感じる社会的圧力を集合意志のごとく解釈し、それを社会秩序の象徴としながら自ら集合意志の獲得に成長を見るのである。デュルケームは保守的集団の抱いている考え方にも誤りがあるが、彼ら各人も社会的圧力(集合意志)を受けて辿り着いた結果である点を、改革派へ向けて訴えたいのである。しかしデュルケームには改革派が新たな共有表象を求めていることには、ほとんど関心がない。

たとえば犯罪についての説明に、彼の偏った考え方が認められる。デュルケームは 「犯罪は社会的結束のために機能する」 と考え、一定の犯罪率を正常社会と説明するのだ。犯罪は社会に含まれていないのだろうか? たとえ犯罪を社会に含めているとしても、犯罪がその社会的結束から除外されていることによって生じる社会的側面には触れず、ただ社会的結束と正常社会を説明することだけが目的となっているのだ。

つまり 「機能」 とは集合結束の側の有益性を、社会的全体の有益性と同一視させる手段になっている訳である。デュルケームは犯罪が結束側の道徳意識の発展に社会貢献するものと限定しているが、しかし社会的な道徳的結束自体が、その社会貢献を果たす犯罪を生むために機能していることまでは示さない。

やがてフランスではベルグソンによって 「閉じた道徳と開いた道徳」 や 「閉じた社会と開いた社会」 が示されたが、それはデュルケーム的偏った集合結束の閉鎖性を見た結果と言えるのである。またアメリカのサムナーの 「内集団と外集団」 も、同様にデュルケーム的機能主義に向けた反論と言えよう。全くデュルケームの偏狭なる社会学理論が浸透したことが、新たな社会学視座を拓かせることに機能したようである。

おそらくデュルケームは 「共有 common」 に、社会契約論的な個々人の意識的共有を感じていていたためにそれを避けたと思われるが、意識せずになされた共有として見るべきであり、かつ 「集合」 の物象化を避けるべきだった。「集合」 は時間的変化を誤魔化す道具であり、もっと集合体の中でなされている 「共有」 状況の変化をよく見る必要があった。



20世紀後半に示されたグールドナーの 「社会学の社会学」 では、マルクス主義のみならず、デュルケーム学派の機能主義的な社会学自体をも、マンハイム的な知識社会学の立場から社会学的に考察しようとした結果である。私はむしろ 「社会観の社会学」 として考えたいが、様々な人々の抱いている社会観を踏まえ、その一部に所属している様々な社会学者という成員たちの影響や普及状況の多様化など、その様々な社会観浸透状況と共に社会現象との関係を見る【知識社会学的立場】を期待している。

グールドナーの著書 「社会学の再生を求めて」 では、デュルケーム的説明である 「犯罪の社会的機能」 が集合表象の側から一方的に定義される有益性であるため、集合表象への同調に報酬のみを見て、逸脱表象の側には代価しか見ない点を示している。同調側の代価は見ず、同調に社会的有益性への使命による未成熟からの決別と見なすのである。つまり人々はそれぞれ様々な代価を支払う社会状況の中で社会的同調の代価を成長と宣伝し、逸脱の代価を同調能力のない当然の代価と見下すのである。知識社会学の立場からすれば、この世の中とは、それぞれが自身の代価を成長と宣伝し合う闘争の場に見えることになろう。

実際、デュルケームは 「犯罪の社会的機能」 だけを説明し、 「その犯罪を生む原因である集合表象の機能」 (犯罪に機能を求めているデュルケーム学派だから、その犯罪を生じさせる要因なるものも、彼らからすれば社会的機能となろう) に関心がなかった。人々の集合体への同調は逸脱を生むことに機能し、逸脱現象は同調側の結束に機能すると説明しなければならないのだが、デュルケーム学派は後者しか見なかったのである。つまり同調側の内集団思考であることを隠したかったのである。それぞれの国単位による集合表象の衝突であったものとして第二次世界大戦を考察しうるのは、ベルグソンやサムナー、そしてグールドナーたちの側である。一方のデュルケーム学派は、せいぜい第二次世界大戦の逸脱が国際社会の結束に機能したと説明するのがやっとであろう。彼らは自らが所属する小じんまりとした民族的内治の集合体を 「社会」 の名に置き換えて有益性を訴えているだけであって、実際の集団間の外交意識など、社会の現実認識の追求発展には適していない。彼らは支持者の意見を取り入れる保守主義的政治家になった方が有益な人々であって、社会学者の立場から集合体の有益を説明することは、保守主義的努力に適応する人々には有益だろうが、社会学のさらなる解明普及を願うのならば促進を遅らせる障害物にすぎない。

まあ問題は、人々が機能主義の 「社会」 の偽装に気付かずにいるのか、それとも気付いているのだが偽装工場で働いている立場から味方せざる負えないのか、そんな一般人の知識状況にあるのだろう。


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