思考の社会学 〜心理学革命〜
カインとアベル
2010/08/06 06:56

兄カインは、弟アベルを殺した(「創世記」4章・8節)。それはサウルがダビデにたいして殺意を抱いたこと(「サムエル記上」18章・11節・17節・21節)と、大変よく似ている。また兄エサウが弟ヤコブにたいして殺意を抱いたこと(「創世記」27章・41節)も、一応同じ部類に属するのと見なしておけそうだ。

そこでまず問題としたいこととは、彼らがそれぞれ殺意を抱くに至った要因についてである。実際のところこの問題とは、旧約聖書に潜む思考形式の最も重要な一つであり、しかも現代の人々がそれについてどんな考えを抱くかによって、逆に現代の人々の状況さえも明らかにしうる、そんな事柄に相当している問題なのだ。



[評価の発信源]

では、それらの殺意発生となった要因の重要な一つは何かと言えば、それは【評価の発信源】である。カインは神に評価されているアベルの状況を見て殺意を抱くに至り(「創世記」4章・4ー5節)、そしてサウルはダビデが女たちに評価されている状況を見て殺意を抱くに至っている(「サムエル記上」18章・7ー8節)。確かに周囲の評価状況が何であれ、必ずしもカインやサウルのような状態になるとは限らないとして、それぞれ殺意を抱くにいたった個人についての心理学的解釈に励む方も居られようが、旧約聖書の場合には、【評価の発信源】が強く関係しているのである。

さてカインとアベルに下される評価判定の発信元を見れば、それは神である。そして神が下す評価にたいしてカインは不満を抱くのだが、その評価にたいして異議申し立てが出来ない状態と言うか、異議申し立てをする選択さえ思いつくことがない状態にある。そうした事情はサウルの不満についても同じで、評価を示し歌う女たちへ向けた異議申し立てなどは全くないのである。

実際、その評価の発信源にたいして異議申し立てがないことが、そもそもの旧約聖書の前提のようであり、その前提が保たれた上で、カインはアダムに殺意を抱くことにもなり、サウルもダビデに殺意を抱くようになるのだろう。



ふ・ふ・ふ……。話は外れるが、現代メディア社会の秘密は、こうした事情の中にひっそりと隠されているようにも感じる。

現代社会を見れば、自らの評価発信源にたいして異議申し立てがなされないように密かな工夫を凝らし緻密な計画をしながら、「言論の自由」のもと、他者について評価する自らの発信源の役割を守っているのである。なるほど、そうした現代メディア社会の雰囲気の中において、個人的に旧約聖書を読むことには何か無用性や隠遁性を感じてしまうのも、こうした双方の思考形式の間にある大きな差異によるのだろう。つまり現代メディア社会では随時変化しながら様々な評価が発せられている訳だが、一方の旧約聖書では、その評価発信源についての追求意識がほとんど見られないため、現代の読み手としては気味が悪いのである。

そもそも旧約聖書が問題と見ていた事柄とは、現代人の大半が求めるような、社会参加のための【個人主義的】に何か役に立つように思える知恵の結集にはない。旧約聖書の問題とは、むしろ随時周囲から下される評価の発信元にたいしては対抗するための手立てがない、そんな状況下での【全存在内(一神教的)】の個人個人の位置付けなのである。例えばカインがおこなったアダム殺害の罪に焦点を当てようとする心理学的解明や法学的探求など、そういう態度にたいしてこそ問題の目を向けるのが、むしろ旧約聖書の立場であって、「カインを殺す者は、七倍の復讐を受ける」(創世記・4章・15節)と記されるのである。

おそらく個人主義的な立場から狙いすます学者なんかの場合には、カインにのみ焦点を当てては、アベル的な支持者のみなさんに自説を聞いてもらおうと努力されることとなるのだろうが、しかし"評価されている自身の立場にすっかり満足しただけで、評価発信元の社会的影響について全く関心がなかったアベル"については、全く考えもしないのである。(当の学者自身も、自らの特権的な評価発信の立場を人々に見られたくないので、当然、アベルを評価している側にも触れたくはないのである。というか、当の学者の関心領域自体が、アベルの関心領域と等しいのである)

比べて旧約聖書の一神教的立場からカインとアベルについて考えて見れば、評価発信の影響を見ていないカインとアベルの双方がいる社会学的事柄を問題にしている訳である。すれば、サウルによって殺意を抱かれたダビデは、もはや評価発信源を見ずに満足していただけのアベルではない。ダビデにとってサウルは、女たちの発する評価などに振り回される、等しくカインの放浪の立場に立たされた同志なのだ。「サウルを殺した」と御機嫌伺いに来るアマレク人(「サムエル記下」1章・2ー16節)などは、ダビデにとって、個人主義的な社会参加に一生懸命なアベル、しかもカインの放浪を心の内で小馬鹿にしているアベルみたいな存在なのである。ダビデは自らに殺意を抱いていたサウルを同志として哀悼した(「サムエル記下」1章・17ー27節)理由は、やはり旧約聖書の中に脈々と潜んでいるところの、【全存在内(一神教的)】の個人個人の位置付けがなされていたからであろう。

全く今日の個人に焦点を当てて説明する心理学者や精神分析学者などを見れば、彼らはカインを道具のように扱う心優しき解剖学者アベルであるか、さもなくば時代的に権威づけられた人物評価の発信領域を狙いすまし、そこに何とかありつけた実況解説者アマレク人なのである。カインたちの中にはダビデのように活躍できる人物たちもいようが、さまよい放浪に疲れるカインたちもいる訳で、アベルやアマレク人はその疲れ果てたカインらを探し求めては、自らの活躍の舞台に引きずり込んで上手に飯を食べて行こうと言ったところだ。カインがどれだけ社会全体を見届けていたか、彼らは知ることはないし、関心もないだろう。自身の活躍と自身についての評価獲得が大事なのである。

そういう訳で、知りすぎたカインは、「知は苦なり」(伝道の書・1章・18節)と記すのだが、彼らアベルやアマレク人にはわからない。「善悪ともに滅ぼされる」(ヨブ記・9章・22節、伝道の書・12章・14節)と発する言葉も、アベル、アマレク人、カインとでは、やはりそれぞれ響きは異なっているのである。

いずれにせよ、兄カインに殺された弟アベルだった訳だが、一方で弟ヤコブの場合は、兄エサウの殺意には落ちなかった。弟アベルは自らが受ける評価に満足していてカインが何を思っているかについて全く関心がなかったのだが、弟ヤコブは母リベカの思い計りもあって、欺いてまでも父イサクの祝福継承を手にした。現代社会ならば、心優しきアベルは欺いたことに焦点を当てては責め立てて、アマレク人はその騒ぎ立ての状況に合わせて自らの評論家気分を満喫するところだろう。

しかしヤコブは神を欺いたのではなく、現世の評価発信源である父イサクを欺いたのである。カインやアベルの時代では充分に監視できなかった評価発信源について新たに計算し始め、その計算に優れていること自体が祝福継承されるに値する権利だと、そう信じるに至ったヤコブであろう。それは伝統的な長子特権にたいしても機転を利かすのであって、兄エサウでは達成しえない時代的革新の時期だと、自ら解釈していたと思われる。つまりヤコブとは、【時代的展開】、【評価発信源の状況】、【人々の思い計り状況】などを理解した最初の人物として記されたのであり、イスラエルの名により代々引き継がれる結果にもなったと思われる。

全体を通して、旧約聖書では「長子特権」が設定されていたであろうが、その「長子特権」とは単なる守らなければならない規則なのではない。「長子特権」の理念により兄弟関係にそれぞれの影響を与え、時代的展開を施す契機となる神が与えた媒介物なのである。多神教的で個人主義的な人々からすれば、「時代によって規則は変わる」と言いながら、社会参加についての個人心理学を狙いすますのだろうが、一神教的で社会的に見る旧約聖書では、「規則を通して時代が変わる」と、知識社会学的な立場の礎を残すのである。



しかし「カインの末裔」や「惜みなく愛は奪ふ」を残した有島武郎は、1923年、ある女性とこの世に別れを告げたのだが、一体日本の心理学者や精神分析学者たちは何を思うのだろうか…… また広島原爆慰霊祭が、カインの目にはどんな風に映るかは、想像できないだろうし、想像しようとも思わないだろう。広島原爆慰霊祭にのぞむ様々な人々のそれぞれの態度が、毎年歴史的事実として刻まれていくとは、一体何を意味するかは、おそらくカイン的な人間にしかわからない事柄だと思う。



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