思考の社会学 〜心理学革命〜
「出エジプト記」
2010/08/03 18:44

さて旧約聖書の「神」には、深く【人間の思い図り】にたいする対抗意識が関係していることを示しておいたが、その一つにはエジプトの支配体制についても同じく当てはまる。やがてそのエジプト支配に苦しむイスラエルの人々が、モーセの導きによってエジプトを離れることについて記したのが、「創世記」に続く「出エジプト記」である。

そこでまず、エジプトについての位置づけを確認しておきたいが、それはセムにたいするハムに属しているエジプトなのである(「歴代志上」1章・8節、「詩篇」78章・51節)。セム語族とかハム語族の分類が、実際の現行言語学でどのくらい通用しているのか、あるいは不適当さが吟味されているかは、どうでもよい。旧約聖書の立場において、明らかにセムとハムの区別(「創世記」9章、10章)がなされていることが、重要課題である。

ではエジプトが属するハムの系統について、一体旧約聖書ではどんな解釈がなされていたのであろうか? ハム系統からはニムロデが世の最初の権力者(「創世記」10章8節)としていることからして、エジプト政権の支配構造へと繋がる統治理念の発達文化を見ていたのかも知れない。そしてハム系統に属するソドムについては、彼らがアブラムの弟の子ロトに向かって、「この男は渡ってきたよそ者であるのに、いつも裁き人になろうとする」(「創世記」19章・9節)と見ている。それはハム系統の"自集団支配の場"と旧約聖書の"神の前の場"の、それぞれが基礎としている理念の対立状況を示したものであろう。

遡ること旧約聖書では、ハムとセムの違いについては、父ノアの泥酔に求めている(「創世記」9章・20ー27節)。そしてバベルの塔(「創世記」11章・4ー9節)では、言語の多様化状況についても解釈している。



[多様化と歴史観]

旧約聖書では、ハムとセムの分岐発生点について、過去のバベルの塔という自らの歴史解釈に求められている。それは恐らく自らの一神教的思考に支えられた結果でもあろう。もし一神教ではない多神教的思考を用いるのならば、たとえばギリシャ神話ように、ハムの支配統治の神とセム(旧約聖書の側)の荒野の神などと、適当な別々の神々を設定して歴史的経過を解釈したであろう。一神教には【現状の多様性を過去の歴史から解釈しようとする動機】があるが、多神教の場合は多々の力の発生を説明することで満足してしまい、多様性発生の【一神教的な歴史的解釈】には遠く及ばないのである。

つまり、ハム系統のエジプトとセム系統のイスラエルの人々の分岐について、旧約聖書では一神教的歴史解釈としてのバベルの塔が関わっているのだ。旧約聖書の側は、ただエジプト支配のハム系統の人種と闘うのではない。「創世記」では、兄弟から憎まれていたヨセフが、やがてはエジプトに辿り着き(「創世記」39章)、その後ハム系統エジプトにおいて相応の対応を受けているのである。

「出エジプト記」1章をよく読んでみれば、次第にイスラエルの子孫が多くなったため、ハム系統エジプトからしても権威を感じ始めたたこと、また過去のヨセフのことが、すっかり忘れ去られた時世とされているのである。つまり、ハム系統には充分な一神教的歴史解釈がなされていなかったがゆえに、ヨセフのしたことの役割を随時歴史的に考慮しながら、その後の時代変化とともに統治方法を工夫することには及ばず、その結果として、エジプトのパロの時世にはイスラエルの人々にたいする抑え込み政策に至ったと考えられるのである。

旧約聖書は、ただ単純にハム系統の人種に制裁を加えようと望んでいたのではない。むしろ一神教的全体を見ないハム系統の考え方にたいして制裁を望んでいたと見なすべきであろう。

しかし旧約聖書を記憶する人々の人数が増せば、その集団をまとめるために内容も卑小化されるため、ごく少数が理解する深遠理念が埋もれてしまい、全般的にはあやふやになるのである。その傾向は別に旧約聖書に限らず、現代社会の人々が語る意見についても、たいして事情は変わらない。我々は旧約聖書を読む時、現代社会の普及している考え方についてと同様に、全般的集団の解釈理念と、局所的な卓越個人的であろう埋もれているところの解釈理念とを区別しなければならない。

ある面、歴史意識の発達とは、一般的に周辺勢力と自己立場の相違から生じるものである。ドイツのランケの歴史学は、フランス啓蒙主義からのナポレオン勢力にたいする自国ドイツ精神の相違から生じた。またイタリアのヴィーコは、フランスはデカルトの合理主義との相違から生じたものである。特にヴィーコの「新しい学」などには、当時普及しつつあるデカルト的合理主義に、一神教的な歴史を見ない人間中心的なエジプト政権のような態度を見たために、旧約聖書的方法を擁護している感じさえする。

今日の日本でも説明させている世界史の「ルネサンス」の用語について、よく考えてみたことがあるだろうか? 何やら「再生」とか「復興」を意味するらしく、キリスト教の普及によって抑え込まれていた古代ギリシャ、古代ローマ文化の復興と考えられているらしい。名付け親はフランスのミシュレやブルクハルトで、社会変革やら社会参加する個人個人の活動に注意する考え方から生じたものである。

全く旧約聖書の側から言えば、「ルネサンス活動」によって抑え込まれてきた一神教的歴史観を再度構築する「逆ルネサンス」のような時代を期待したいものだ。実際のところ、旧約聖書の歴史観も、周辺のエジプト統治の考え方との相違などから生じて来たたものと想像できよう。すれば現在のマスメディアから発せられるところの「ルネサンス」に毒された考え方にたいして疑問を持つ人々が結集されるならば、「逆ルネサンス」と呼びうる新たな歴史観が台頭してゆく可能性があるのだろう。

まあ少なくとも、エジプト党とヘブライ党の二大政党で議論バトルする場所を早めに実現すれば、とぼけた「ルネサンス的競争原理」の社会も早めに改善出来ると言ったところでしょう。フランス革命にエジプト政権打倒を見てしまったルネサンス的思考によって、一神教的歴史観は味噌っかす扱いで追い出され、ルネサンス的思考の同士が右翼と左翼に分かれて争っている現代なのである。旧約聖書の「神」に取って替わったのは、「自由・平等・博愛」である。

確かに「神の戒めによる衰退、神の祝福による興隆」と言った自理念の「神」による歴史解釈など、こじつけや偏狭さが含まれている旧約聖書とは言え、古い時期に登場した文献の中では、旧約聖書ほど系統立てて歴史観を構築しようとしたものはない。おそらく、他の古い文化圏では、せいぜい断片的な寄せ合わせの形でしか歴史観を確認できないことだろう。

歴史観は他文化勢力と自文化の相違から生じる。旧約聖書の側ではエジプトについて、自らが「ナイル川は私のもの」(「エゼキエル書」29章・3節)としていることに対抗し、神の創造(「エゼキエル書」29章・6節)を示唆させている。こうした旧約聖書の考え方は、「申命記」8章・17節、32章・27節、「士師記」7章・2節などに認められ、いずれも神を離れた【人間中心の思い図り】の戒めを意味している。

まさに「ルネサンス」の命名に時代的な発展的推移を見た先進性世界観が、現在の【人間中心の思い図り】に自由競争原理を置くグローバル的な蔓延を運命づけたのである。もし現在の著名人がなす議論に、何かとぼけた選民性を感じる人々がいるならば、旧約聖書もなかなか面白い本と推奨したい。



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