思考の社会学 〜心理学革命〜
ある「旧約聖書」の読み方
2010/08/02 00:03

ユダヤ教、キリスト教と言えば、全般的に日本人にとっては気味の悪いものである。「神」の連呼で記される聖書を見たならば、こちらはただ聞き手にされてしまうような気持ちになるのであろう。実際、聞き慣れない「神」を、ただ聞かされるような叙述を読むと、「じゃあ、今までの私は一体……」と思うし、その聖書が普及したならば、とり憑かれた誰かが、急に先頭に立っては近所の人々に言い聞かせ始めたりすることになろうかと、不安になるのかも知れない。また自身が聖書を読んでいるところを友達や知り合いに目撃されもしたものならば、クリスチャンという噂がたちまち広がり、今までの知り合いから一目置かれてしまうかも知れないと想像するのだろう。

私の場合はと言えば、もはや西欧の人々など多くの人々が読んできた本ということで、その過去の人々の解釈状況を知るための一つの参考文献である。その過去の人々の描いていた世界観を知る手掛かりとして、私なりの読み方を紹介したい。



[人間の思い図り]

まず最も重要なキーワードを挙げておけば、それは【人間の思い図り】についての見解である。[創世記]ノアの方舟に関係する6章・5節、8章・21節、「詩篇」33章・10節、[箴言]16章・9節、19章・21節、[伝道の書]7章・29節、「イザヤ書」29章・15節、30章・1節、32章・7節、47章・13節などに、その旧約聖書の立場から見た、「神」を考えに入れていない【人間の思い図り】について描かれている。そして一方の人間の思い図りにたいする神の思い図りについては「詩篇」33章・11節、「イザヤ書」46章・9ー11節に認められ、旧約聖書とは、現行の統治の仕方に宿っている思い図りの偏狭さにたいして、随時「神」を対置させたものと言える。

現代社会で喩えれば、必ず権威側からなされる説明に不満を感じる人々がいる。その権威側からなされる持論説明にたいして、「神」の概念を用いて反対を訴えていたのが、旧約聖書と考えればよいであろう。権威側の説明や方法に、彼ら自身にとって都合のよい思い図りがあるのを見てとり、それにたいして、もともとの存在自体を創造した神を仮定しながら、新たな権威を試みているのが旧約聖書なのである。現代日本では「国民のことを考えていない」と騒いで現政権に立ち向かうところを、旧約聖書では「この世を創った神を考えていない」と訴えていたようなものなのである。

確かに「神」の概念には発言者側の自己設定的な偏狭さを感じるだろうが、「国民」の概念にも、実際の多様な人々を見ない、自身の意見の背後に漠然とした多数の味方を示唆するだけの偏狭さを見なければならないのである。その曖昧な「国民」でありなからも変革の原動力になるように、旧約聖書の「神」も人々に働いたであろう。ならば実際の「国民」の多様性を詳しく調べて進展性を求めるように、「神」の概念についても現行の曖昧さを感じながらも進展性を目指した概念であった可能性を考えて考察しなければならない。

現代日本において見られる、「国民」の連呼で活躍する政治評論家に何ら違和感さえも感じない人々にとっては、いつまでたっても旧約聖書は気味の悪いものだろう。しかもそのような自らの状況自体に、旧約聖書の「神」を無反省に信じる態度とは何ら変わらない、「国民」概念の盲目な聞き入れがあることに気付きもしていない。

おそらく日本文化では「世間」「みんな」「国民」の概念で他者へ圧力を加え自らの正当性を訴えるのが好きなので、「神」の概念なんかは邪魔なのであろう。せめて「神」を批判するように「世間」「みんな」「国民」などの概念についても批判が出来るようになれば、少しは間抜けな政治評論家も心を改めるか排除されていくのだが、今のところその動きは皆無である。

なるほど、知識とは必ず個人が抱いているものである。よって「神」の観念を抱いているのも必ず個人であるから、それを個人心理学的な立場から解釈するのだろう。しかし、知識を抱いた個人個人は、その知識を抱くまでに、完全に孤立していた訳ではない。知識を抱いた個人個人の活躍である社会的出来事が積み重なった結果なのだ。現在「自己啓発」やら「〜力」の理念が強い日本であるから、ただ【社会的参加するための実践的個人】だけが人々の会話議題となり、知識についても個人心理学で会話の主導権が握れると言ったところだろう。しかしそうではなく【社会参加している出来事的(事実的)個人】あるいは【社会参加してきた出来事的個人】を見て、その個人が周辺他者と関わってきた知識社会学を見る必要があるのだ。旧約聖書についても同じである。旧約聖書に集中していた個人を解釈するのではなく、その旧約聖書を読んでいた集団と他の集団の関わり、また"旧約聖書の集団から見た他集団"と"他集団から見た旧約聖書の集団"の状況を知識社会学的に考察する必要があるのだ。

確かに【思い図りをする個人】を「神」によって戒める旧約聖書であって、その「神」を語る個人が気にもなる。結局は個人個人の理念闘争の場に、架空の「神」によって自らの立場を有利にしようとしている個人が見えてしまうであろう。しかしそれは個人心理学的な解釈に慣らされた一つに立場に過ぎない。実際は、統治政権でなされる思い図りの領域における、理念闘争のための「神」として、知識社会学的な立場が必要とされる。

つまり旧約聖書とは、ただ神と個人を対置させ、そして自らの宗教的権威によって個人個人を統治しようとする試みだけではなかったのである。現状政権の偏狭的な考えへ向けた批判方法であり、その権威に振り回される人々の結束を求める側面があったのだ。最初の「創世記」の後に位置する二番目の[出エジプト記]3章・9-12節では、【エジプト政権にたいする戒め】が記され、現行与党政権の思い図りに対抗する野党側の言い分に相当していると言える。また人間の創造力について、それを人間自身の評価によって讃えようとする思い図り方については、「創世記」11章・4節の"バベルの塔建設"や、「レビ記」26章・1節の"偶像崇拝"などで、神による戒めを記した旧約聖書と言えるだろう。



紀元後のヨーロッパ世界を見れば、新約聖書を加えたキリスト教となり、ギリシャ正教会、ローマカトリック教会によってキリスト教勢力が増したが、ルネサンス期に入ると、ぼんやりと信仰のみに没頭していては社会秩序維持さえもままならぬと、マキャベリの「君主論」が普及した。あの旧約聖書に見られるエジプト政権も、個人個人の思いはかりによる社会的混乱を統治するために生じた一つの形態であったろう。また旧約聖書の側では随時[神]の戒めにより政権の興隆衰退が解釈される雰囲気にあるが、エジプト政権側も旧約聖書側も"個人個人の思い図り"を問題とした統治方法を共通議題に含んでいる。

ようするに、ユダヤ教やキリスト教は単なる個人的な行き場のない労苦を集約して、人々を救済することだけを目指していた訳ではない。現行政権側への当てつけのための結集でもあったのである。通常、科学的知識と宗教的知識の分類で考察される傾向にあるのだが、実際は政治的知識と宗教的知識の問題として旧約聖書を取り扱う領域が残されているのである。



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